今月は地道に多忙(笑)。中旬に九州久留米市に行くのが格好の息抜きとなりそう。




2003ソスN5ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0152003

 燕の巣母の表札風に古り

                           寺山修司

司、十代の句。この人にしては、珍しく写生的で、情景のくっきりとした句だ。軒先に燕が巣を作った。子燕たちが鳴き立てているので、見るともなしに見やったというところか。当たり前のことながら、軒下には「表札」がかかっている。両者は、同時に視野の中にある。でも、たいていの感受性ならば、元気な子燕の姿に微笑して、表札などは気にも止めずに立去ってしまうだろう。たとえそこに、父親のいない家庭を示している「母の表札」がかかっていようともだ。平凡な日常にあって、親の名前の書いてある表札をしげしげと眺めるなど、少なくとも私には経験がない。だが、ここでしぶとく一粘りするのが修司少年の詩心なのである。元気な子燕と母親の表札との取りあわせから、何か普遍性のある物語が紡ぎ出せないものかと粘るのだ。この取りあわせ自体が、既に十分に物語性をはらんではいる。しかし、これを下手に読者に突き出すと、単に同情を買いたがっているかのような、ひどくあざとい句になってしまう。その臭みを消すためにはどうすればよいのかと、下五をだいぶ考えたのではなかろうか。で、しごく平凡に見える「風に古り」と置くことにした。故意に、凡庸と思われる言葉を置いたのである。これで取り合わせの臭みは消え、さりげない哀感が滲み出てくる仕掛けが完成したというわけだ。ま、こんなふうに句を分解して考えるのは悪趣味かもしれないが、掲句に限らず、さりげなさを演出する俳句のダンディズムは、おおかたこのような形をしているのだろうと思ったことである。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)


April 3042003

 腹立ててゐるそら豆を剥いてをり

                           鈴木真砂女

語は「そら豆(蚕豆)」で夏。サヤが空を向くので「そらまめ」としたらしい。そのサヤを、むしゃくしゃとした気持ちで剥(む)いている。作者は銀座で小料理屋「卯波」を営んでいたから、剥く量もかなり多かっただろう。仏頂面で、籠に山なす蚕豆のサヤを一つ一つ剥いている姿が目に浮かぶようだ。妙な言い方になるけれど、女性の立腹の状態と単純作業はよく釣り合うのである。かたくなに物言わず、ひたすら同じ作業を繰り返している女性の様子は、家庭でもオフィスなどでもよく見かけてきた。一言で言って、とりつくシマもあらばこそ、とにかく近づきがたい。「おお、こわ〜」という感じは、多くの男性諸氏が実感してきたところだろう。怒ると押し黙るのは男にもある程度共通する部分があるが、怒りながら何か単純作業をはじめるのは、多く女性に共通する性(さが)のように思われる。したがって、仮に掲句に女性の署名がなかったとしても、まず男の作句と思う読者はいないはずだ。些細な日常の断片を詠んだだけのものだが、女性ならではの句として、非常によく出来ている。話は変わるが、東京あたりの最近の飲み屋では、蚕豆のサヤを剥かずに火にあぶって、サヤに焦げ目がついた状態でそのまま出す店が増えてきた。出された感じは、ちょっとピーマンを焼いた姿と似ている。あれは洒落た料理法というよりも、面倒なサヤ剥きの仕事を、さりげなく客に押し付けてやろうという陰謀なのではなかろうか。そうではないとしても、サヤの中の豆の出来不出来を見もしないで客に出す手抜きは、実にけしからん所業なのであります。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 2942003

 飛ばさるは事故かそれとも春泥か

                           岡田史乃

通事故にあった句。一瞬、何が自分の身に起きたのかがわからなくなる。私の場合は、こうだった。もう深夜に近い人影もまばらな吉祥寺駅前の交差点で、信号はむろん青だったが、普通の足取りで渡っていたら、前方の道から走ってきた右折車が有無を言わせぬ調子で突っ込んできた。あっと思ったとたんに、私の身体は嘘のように軽々とボンネットに乗っており、次の瞬間には激しく路上に叩きつけられていた。ボンネットに乗ったところまでは意識があったけれど、下に落ちてからは、掲句のように頭が真っ白になった。何が何だかわからない。したたかに腰を打って、しかし懸命に立ち上がったところに運転者が降りてきた。「大丈夫ですか」。こんなときにはそんなセリフくらいしか吐けないのだろうが、大丈夫もくそも、こっちの頭は大いに混乱している。とにかく歩道にあがって、そやつの顔を街灯で見てみると、こっちよりもよほど若く、よほど顔面蒼白という感じだった。私が黒いコートを着ていたので、まったく見えなかったと弁解し、「すみません、すみません」と繰り返すばかり。名刺はないけれど、近所の中華料理店で働いていると店の名前と場所と電話番号をメモして渡してくれたので、こちらもとにかく立ててはいられるのだからと、警察沙汰にするのも可哀想になってきて、今後は気をつけるようにと放免してやった。ところで最近、この句の「飛ばさるは」について、「飛ばさるるは」ないしは「飛ばされしは」でないと表現上まずいという人たちの話を雑誌で読んだ。事が事故でなければ、たしかにまずい。しかし、文法的な整合性に外れていると知りつつも、あえて作者は「飛ばさるは」として、交通事故にあった切迫感を出しているのだと思う。そのへんの機微がわからないとなると、俳句の読者としてはかなりまずいのではなかろうか。「俳句」(2000年3月号)所載。(清水哲男)




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