吉祥寺のパソコンショップが撤退してブックオフになる。店の盛衰が激しい街だ。




2003ソスN4ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1742003

 人類の歩むさみしさつちふるを

                           小川双々子

語は「つちふる」で春。「霾」というややこしい漢字をあてるが、原義的には「土降る」だろう。一般的には、気象用語で用いられる「黄砂(こうさ)」のことを言う。こいつがやって来ると、空は黄褐色になり、太陽は明るい光を失う。その下を歩けば、はてしない原野を行くような錯覚に陥るほどだ。そしていま、作者もその原野にあって歩いている。そしてまた、作者には「つちふる」なかを歩く人の姿が、個々の人間ではなくて「人類」に見えている。類としての人間。その観念的な存在が、眼前に具体となって現れているのである。下うつむいておろおろと、よろよろと歩く姿に、人類の根源的な「さみしさ」を感じ取ったのだ。太古からの人類の歩みとは、しょせんかくのごとくに「さみしい」ものであったのだと……。「人類愛」などと言ったりはするけれど、普段の私たちは類としての存在など、すっかり忘れて生きている。一人で生きているような顔をしている。が、黄砂だとか大雪だとか、はたまた地震であるとか、そうした人間の力ではどうにもならぬ天変地異に遭遇すると、たちまち自分が類的存在であることを思い知らされるようである。その意味で、掲句は「人類」と言葉は大きいが、実感句であり写生句なのだ。名句だと思う。愚劣な戦争を傍観しているしかなかった私の心には、ことさらに沁み入ってくる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


April 1642003

 葉桜の下何食はぬ顔をして

                           大倉郁子

はあん、何かやらかしましたね、何日か前の花見の席で……。調子に乗って飲み過ぎて、小間物屋を開いちゃった(←これ、わからない人はわからないほうがいいです)のかもしれない。実際はなんだかわからないけれど、とにかく失態を演じてしまったのだろう。それが、花が散って葉桜になり、風景も一変してしまったので、そこを通りかかっても「何食はぬ顔」をしていられる。「ああ、よかった」。もしも、桜の花期がずいぶんと長かったら、こうはいかない。そこを通るたびに、やらかしたことを思い出しては、自己嫌悪に陥るのは必定だ。酒を飲みはじめたころに、私も一大失態をやらかしたことがある。運の悪いことには、桜の下ではなくて、友人宅の部屋の中でだった。桜はすぐに散るけれど、友人の家はいつまでも同じ形で残っているので厄介だ。前を通るたんびに、表面的には何食はぬ顔をしているつもりでも、そのことを思い出さされて自己嫌悪に陥るので、三度に一度は回り道をしたほどだった。だから、句の作者の気持ちはよくわかるつもりだ。背景や光景や環境が変わりさえすれば、以前の失敗が絵空事のように思える。そういうことは、人生には多い。一見軽い句だけれど、この軽さに、読者それぞれの苦い風袋(ふうたい)がプラスされると、そんなに軽い感じを持たずに受け止める人も結構いるのではなかろうか。『対岸の花』(2002)所収。(清水哲男)


April 1542003

 山吹や川よりあがる雫かな

                           斯波園女

語は「山吹」で春。東京では、いまが盛りだ。園女(そのめ)は江戸期の人、蕉門。前書に「六田渡(むだのわたし)」とあるから、奈良の吉野川下流域での句である。さて、この句はちょっと分かりにくい。ふつう「渡」というと、誰もが渡し舟を想像するだろう。「舟が出るぞ〜」の、あれである。しかし、渡し舟の「雫(しずく)」が「川よりあがる」図には無理がある。では、何の雫だろうか。急流なので、岩を噛んだ水が飛び散り、雫となって岸辺に「あが」っている図だろうか。でも、それならわざわざ前書をつけることもない。正解は「馬」である。万葉集に「馬並めてみ吉野川を見まく欲りうち越え来てぞ瀧に遊びつる」の歌も見えるように、大昔から川は馬でも渡っていた。雫の主が馬と分かると、句の情景はたちまち鮮かに浮かびあがってくる。川瀬を勢いよく渡ってきた馬が岸にあがり、びしょ濡れの胴体から飛び散る雫が、折しも満開の黄金色の山吹にざあっとかかった情景だ。まことに力強くダイナミックな詠みぷりで、春光に輝く周辺の景色までもが彷彿としてくるではないか。この句は、与謝蕪村編、千代尼序、田女跋という豪華メンバーによるアンソロジー『玉藻集』(1774年・安永三年刊)に収載されている。(清水哲男)




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