今日は友人の三回忌で多磨霊園に。ここには八重桜がある。雨覚悟だったが晴れてきた。




2003ソスN4ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1242003

 襞の外すぐに曠き世八重桜

                           竹中 宏

語は「八重桜」。サトザクラの八重咲き品種の総称で、ソメイヨシノ」などの「桜」とは別項目に分類する。桜のうちでは、開花が最も遅い。東京あたりでは、そろそろ満開だろうか。近くに樹がないので、よくはわからない。ぶつちゃけた話が、掲句の大意は「井の中の蛙大海を知らず」に通じている。見事に美しく咲いた八重桜だが、込み入った花の「襞(ひだ)」のせいで、内側からは外の世界が見えないのだ。すぐ外には「曠(ひろ)き世」が展開しているというのに、まことに口惜しいことであるよと、作者は慨嘆している。慨嘆しながらも、作者は花に向かって「お〜い」と呼びかけてやりたい気持ちになっている。「井の中の蛙」よりもよほど世に近いところ、それこそ皮膜の間に位置しながら、何も知らずに散ってしまうのかと思えば、美しい花だけに、ますます口惜しさが募ってくる。といって断わっておくが、むろん作者は諺を作ろうとしたわけではない。だから、この八重桜をたとえば美人などの比喩として考えたのではない。あるがまま、感じたままの作句である。昔から八重桜の句は数多く詠まれてきたが、このように花の構造を念頭に置いた句には、なかなかお目にかかれない。その構造にこそ、八重桜の大きな特長があるというのに、不思議といえば不思議なことである。俳誌「翔臨」(第43号・2002年2月刊)所載。(清水哲男)


April 1142003

 花吹雪うしろの正面だれもゐず

                           中嶋憲武

るときは、本当に吹雪のように散る。見事なものだ。作者はひとり「花吹雪」のなかにいて、いささかの感傷に浸っている。思い返すと、子供のころには、いつも「うしろの正面」に誰かがいたものだが、いつしか誰もいなくなってしまった。実際に誰かがいたというよりも、両親など、頼もしい誰かの存在を感じながら生きていたのに、その存在が消えてしまった。ひとりぼっち。そんな寂寥感が、激しい落花に囲まれて迫ってくる。苦くもあり、しかしどこか甘酸っぱくもある心情の吐露と言うべきか。というのも、単に背後と言わず、わざわざ「うしろの正面」と、子供の遊び「かごめかごめ」の歌詞の文句を借用しているからだ。このことで、句には楽しかった幼時追想の色合いが濃く滲み出た。「かごめかごめ、籠のなかの鳥は、いついつ出やる/夜明けの晩に、鶴と亀がすべった/うしろの正面だあれ?」。私はこう覚えているが、地方によって多少の異同があるようだ。あらためて眺めてみると、この歌の意味はよくわからない。ただ「夜明けの晩」と「うしろの正面」という矛盾した表現から推して、そうした矛盾を面白がる発想から作られたものだろう。「八十歳の婆さんが九十五歳の孫連れて……」なんて戯れ歌もあったけれど、そんな歌と同じ発想だ。つまりナンセンスソングなのだから、意味を求めても、そのこと自体がナンセンスな試みになってしまう。しかし、子供のころには、誰もが意味不明だということを少しも疑問に思わずに歌っていた。歌にかぎらず、さしたる疑問など持たずに生きていられたのは、むろん「うしろの正面」に安心できる誰かがいてくれたおかげなのである。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


April 1042003

 げんげ田や花咲く前の深みどり

                           五十崎古郷

語は「げんげ田」で春。「春田(はるた)」に分類。昔の田植え前の田圃には、一面に「げんげ(紫雲英)」を咲かせたものだった。鋤き込んで、肥料にするためである。いつしか見られなくなったのは、もっと効率の良い肥料が開発されたためだろう。これからの花咲く時期も見事だったが、掲句のように、「花咲く前の深みどり」はビロードの絨毯を敷き詰めたようだった。それがずうっと遠くの山の端にまで広がっているのだから、壮観だ。もう一度、見てみたい。句は単に自然の色合いをスケッチしたようにも写るけれど、そうではなくて、紫雲英の「深みどり」には、胎生している生命力が詠み込まれているのだ。むせるように深い、その色合い……。春夏秋冬、折々の自然の色合いは刻々と変化し、常に生命についての何事かを私たちに告げている。連れて、私たちの感受の心も刻々と動いていく。知らず知らずのうちに、私たちもまた、自然の一部であることを知ることになる。やがて紫雲英の花が咲きだすと、子供だった私たちにですら、圧倒的な自然の生命力がじわりと感じられるのだった。「げんげ田の風がまるごと校庭に」(小川軽舟)。校庭で遊ぶ私たちへの心地よい風は、農繁期の間近いことを告げてもいた。もうすぐ、遊べなくなるのだ。子供が、みんな働いていた時代があった。『五十崎古郷句集』(1937)所収。(清水哲男)




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