イラクの戦争に関連して「俳句はこれでいいのか」というメールをいただきました。




2003ソスN4ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0542003

 逃水に死んでお詫びをすると言ふ

                           吉田汀史

語は「逃水(にげみず)」で春。草原などで遠くに水があるように見え、近づくと逃げてしまう幻の水[広辞苑第五版]。ときに舗装道路などでも見られる現象で、蜃気楼の一種だという。掲句を読んですぐに思い出したのは、敗戦時、天皇陛下に「死んでお詫びを」した人たちのことだ。敗戦は我々の力が足らなかったためだと自分を責めて、自刃を遂げた。あれから半世紀以上が経過した今、彼らの死を無駄であったと評価するのは容易い。「逃水」のような幻的存在に、最高の忠誠心を発揮したことになるのだから……だ。戦時中の私はまだ幼くて、空襲の煙に逃げ惑い機銃掃射におびえたくらいの体験しかないけれど、すでに祖国愛みたいな感情は芽生えていて、皇居前の自刃の噂にしいんとした気持ちになったことを思い出す。少なくとも、無駄な死などとは感じなかった。そうなのだ。人はたとえ幻にでも、状況や条件の如何によっては、忠誠を誓うことはできるのだ。ここで、かつての企業戦士を思ってもよいだろう。掲句は、そうした人のことを「と言ふ」と客観視している。しかし、冷たく馬鹿な奴めがと言っているのではない。むしろ、その人の心持ちに同調している。同調しながらも、他方で人間の不思議や不気味を思っている句だと、私には読める。作者が句を書いたのは、イラクの戦争がはじまる前のことだし、戦争のことを詠んでいるのかどうかもわからない。つまり直接今度の戦争には関係ないのだけれど、いまの時点で読むと、こんな具合に読めてしまう。最近の戦争報道でも、やたらと「忠誠」という言葉が出てくる。俳誌「航標」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


April 0442003

 山国を一日出でず春の雲

                           小島 健

くせくと働いた職場を離れてみると、見えてくることがたくさんある。あながち、年齢のせいだけではないと思われる。正直なところ、今はなんだか小学生のころに戻ったような気分なのだ。世間知らずで、好奇心のみ旺盛だったあの時代と、さほど変わらない自分が、まず見えてきた。大人になってからは、いっぱし世間を知ったような顔をして生きてきたが、そうしなければ生きられなかっただけの話で、そう簡単に世間なんてわかるはずもない。そんな心持ちで俳句を読んでいると、いままでならなかなか食指が動かなかったような句が、妙に味わい深く感じられる。掲句もその一つで、このゆったりした時間感覚表現を、素直に凄いなあと思う。あくせくとしていた間は、こうした時間の感じ方は皆無と言ってよく、したがって「呑気な句だな」くらいにしか思えなかったろう。作者については、句集の著者略歴に書かれている以外のことは何も知らない。私より、若干年下の方である。私が感銘を受けたのは、こうした時間感覚を日常感覚として十分に身につけておられるからこそ、句が成ったというところだ。付け焼き刃の時間感覚では、絶対にこのようには詠めません。小学生時代を山国に暮らした私には、実感的にも郷愁的にも、まことにリアリティのある佳作だと写った。寝ころんで、雲を見ているのが好きな子供だったことを思い出す。『木の実』(2002)所収。(清水哲男)


April 0342003

 花冷の百人町といふところ

                           草間時彦

古屋などにも「百人町」の地名はあるが、前書に「俳句文学館成る」とあるから、東京は新宿区の百人町だ。JR山手線と中央線に挟まれた一帯で、新宿から電車で二分ほど。戦前は、戸山ケ原と呼ばれていた淋しい場所だったという。町名の由来は、寛永年間に幕府鉄砲百人組が近辺に居住していたことから。その名のとおり百人を一組とする鉄砲隊で、江戸には四組あり、この町には伊賀組の同心屋敷があった。さて、現代の百人町を詠むのはたいへんに難しい。というのも、あまりにも雑然とした構造の町だからである。町を象徴するような建物やモニュメントもなければ、とりたてた名産品があるわけでもない。俳句愛好者なら、それこそ俳句文学館を思い浮かべるかもしれないけれど、地元の人の大半は、何のための建物なのかも知らないのではあるまいか。要するに、つかみどころがないのである。掲句は、そんなつかみどころのなさを、そのまま句にしている。「百人町といふところ」は、どんなところなのか。それは、読者におまかせだと言っている。だから逆に「花冷(え)」という漠然たる情趣には、似合う町だと言えようか。「花冷(え)」の「花」はむろん桜だが、この町には実は「つつじ」の花のほうが多い。百人組の給料は安く、彼らは遊んでいる土地を分け合って、内職に「つつじ」を栽培したのだという。その名残が、いまだに残っているというわけだ。ちなみに、俳句文学館の創立は1976年(昭和五十一年)。作者は俳人協会事務局長として、設立運動に専従で奔走した。『朝粥』(1979)所収。(清水哲男)




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