この春は甲子園大会をまだ一度も見ていない。結果が入ってきたら放送するだけ。




2003年3月27日の句(前日までの二句を含む)

March 2732003

 春荒や封書は二十四グラム

                           櫂未知子

語は「春荒(はるあれ)」。春の強風、突風を言う。春疾風(はるはやて)に分類。静と動の対比は、俳句の得意とするところだ。句の出来は、対比の妙にかかってくる。あまりに突飛な物同士の対比では句意が不明瞭となるし、付きすぎては面白くない。そこらへんの案配が、なかなかに難しいのだ。その点、掲句にはほどよい配慮がなされていると読めた。これから手紙を出しに行く外は、春の嵐だ。少し長い手紙を書いたのだろう。封をして手に持ってみると、かなり重い。80円切手では、料金不足になるかもしれない。そこで、計ってみた。私も持っているが、郵便料金を調べるための小さな計量器がある。慎重に乗せてみると、針は「二十四グラム」を指した。ちなみに定型封書は、25グラムまでの料金が80円である。リミットすれすれの重さだったわけだが、表の吹き放題に荒れている風に対比して、なんという細やかな情景だろうか。すれすれの重さだったので、作者は何度か計り直したことだろう。日常的な行為と現象の、なんの衒いも感じさせない対比であるだけに、読者には格別な「発見」とは思えないかもしれないが、なかなかどうして、これはたいした「発見」だと思った。頭だけでは書けない句だとも……。「俳句」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


March 2632003

 春の灯に口を開けたる指狐

                           牧野桂一

の燈火には、明るくはなやいだ感じがある。「指狐(ゆびきつね)」は子供の遊びで、人差指と小指を立て、残りの三本の指で物をつまむようにして影絵にすると、狐の形になる。ふと思いついて、作者はたわむれに壁に写してみた。大の男の影絵遊びだ。いろいろとアングルなどを変えたりしているうちに、すっと狐の口を開けてみた。まさか「コン」とは鳴きはしないが、何か物言いたげな狐がそこにいて、しばらく見つめていたと言うのである。いま実際に私も写してみたら、子供のときの印象とは違って、「口を開けたる指狐」の風情は、ひどく孤独で淋しげだ。光源がはなやいだ「春の灯」であるだけに、余計にそう感じるのだろう。子供のころの我が家はランプ生活だったので、当然光源は微妙にゆらめくランプの灯であり、影絵だけは電灯よりもランプの炎のほうが幻想的で面白かったなあ。けっこう熱中していたことを、思い出した。しかし、狐のほかに今でも作れるのは、両手を使って作る犬の顔くらいのものだ。あとは、何の形を作ったのかも忘れてしまった。でも、考えてみれば、影絵は生れてはじめて興味を抱いた映像である。いまだにシンプルで淡い「かたち」に惹かれるのも、あるいは当時の影絵の影響かもしれない。「俳句界」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


March 2532003

 風光る白一丈の岩田帯

                           福田甲子雄

語は「風光る」で春。「岩田帯」は、妊娠した女性が胎児の保護のために腹に巻く白い布のこと。一般に、五ヶ月目の戌の日(犬の安産にあやかるため)に着ける。命名の由来は「斎肌帯」からとか、現在の京都府八幡市岩田に残る伝説からとか、諸説がある。心地よい春風のなかを、お祝いの真っ白な岩田帯が届けられたのだろう。新しい生命の誕生を待ちわびる作者の喜びが、真っすぐに伝わってくる。「白一丈(正確には七尺五寸三分)」とすっぱりと言い切って、喜びの気持ちのなかに厳粛さがあることを示している。純白の帯が、目に見えるようだ。ところで掲句の解釈とは無関係だが、だいぶ以前の余白句会で「風光る」が兼題に出たことがある。句歴僅少の谷川俊太郎さんが開口一番、「なんだか恥ずかしくなっちゃうような季語だねえ」と言った。一瞬、私は何のことかわからなかったが、考えてみればそうなのである。たとえば「風光る」と詩に書くとすると、かなり恥ずかしい。散文でも、同様だ。きざっぽくて、鼻持ちならない。逆に、ひどく幼稚な表現になってしまう場合もあるだろう。となると、俳句を詠まない人が、たまたま「風光る」の句を読んだとすれば、相当な違和感を覚えるはずである。俳人なら別になんとも思わないことが、そうでない人には奇異に写る……。こういう目で見ていくと、恥ずかしくなるような季語は他にもありそうだ。俳句が本当の意味での大衆性を獲得できない原因の一つは、ここらへんにもあるのだろう。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)




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