はじまったら大本営発表の嵐だ。それでも、スタジオでニュースは読まなければならぬ。




2003ソスN3ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2032003

 ぼろぼろの芹摘んでくるたましひたち

                           飯島晴子

語は「芹(せり)」で春。正直に言って、私には掲句はよくわからない。しかし、わからないとは言うものの、そこらへんにポイッとは捨てられない気になる響きを持った句だ。何故だろうかと、自分自身に聞いてみる。俳句を読んでいると、ときどきこんなことが起きる。捨てられないのは、どうやら「ぼろぼろの芹」と「たましひ」との取りあわせのせいらしい。「たましひ」は、生者のそれでもよいのだが、この場合は死者の魂だろうと、しばらく考えてから、勝手に結論づけてみた。生者が「ぼろぼろの芹」を摘んだのでは、どうしようもない。いや、生者ならば決して摘むことはない、見向きもせぬ「ぼろぼろの芹」だ。それを、死者があえて摘んだのである。死者ゆえに、もう食べることもないのだから、とにかく摘んできただけなのだ。摘んできたのは、生きていたころと同じようにして、死んでいたいからである。すなわち、死んでも死にきれない者たちの「たましひ」が、春風に誘われて川辺に出て、そこで摘んでいる生者と同じように摘んでみたかったのだ。それだけだ。でも、ちゃんと生者のために新鮮な芹は残しておいて、あえてぼろぼろなところだけを選んで摘んできた。しかも、生きていた時とまったく同じ摘み方で、上機嫌で……。なんと楽しげな哀しい世界だろう。でも、飯島さん。きっと間違ってますね、私の解釈は……。開戦前夜、私はとても変である。誰も、こんなアホな戦争で、死ぬんじゃないぞ。『蕨手』(1972)所収。(清水哲男)


March 1932003

 揚雲雀二本松少年隊ありき

                           川崎展宏

語は「揚雲雀(あげひばり)」で春。鳴きながら、雲雀がどこまでも真っすぐに上がっていく。のどかな雰囲気のなかで、作者はかつてこの地(現在の福島県二本松市)に戦争(戊辰戦争)があり、子どもたちまでもが戦って死んだ史実を思っている。この種の明暗の対比は、俳句ではよく見られる手法だ。掲句の場合は「明」を天に舞い上がる雲雀とすることで、死んだ子どもらの魂が共に昇華していくようにとの祈りに重ね合わせている。戊辰戦争での「少年隊」といえば、会津の「白虎隊」がよく知られているが、彼らの死は自刃によるものであった。対して「二本松少年隊」は、戦って死んだ。戦死である。いずれにしても悲劇には違いないけれど、二本松の場合には、十二、三歳の子どもまでが何人も加わっていたので、より以上のやりきれなさが残る。鳥羽伏見で勝利を収めた薩長の新政府軍は、東北へ進撃。奥羽越列藩同盟に名前を連ねた二本松藩も、当然迎え撃つことになるわけだが、もはや城を守ろうにも兵力がなかった。それまでに東北各地の戦線の応援のために、主力を出すことを余儀なくされていたからだ。そこで藩は、城下に残っていた十二歳から十七歳の志願した少年六十余名を集めて、対抗させたのである。まさに、大人と子どもの戦いだった。戦闘は、わずか二時間ほどで決着がついたと言われている。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


March 1832003

 四人家族の二人は子ども野に遊ぶ

                           大串 章

語は「野に遊ぶ(野遊び)」で春。これからの季節、近所の井の頭公園あたりでは、こんな家族連れのピクニック姿をよく見かけるようになる。若い両親と幼い子どもたち。「四人家族」ならば、たいていは「二人は子ども」だ。当たり前の話だけれど、あらためてこうして文字にしたり、口に出してみると、家族という単位がくっきりと浮かび上がってくる。浮かび上がると、「そういえば、我が家もそうだった。こんな時期もあったなあ」と、見ず知らずの四人家族にシンパシーを感じてしまう。通りすがりの単なる点景が、ぐんと身近なものになる。ここらへんが俳句の妙で、詠まれている当たり前のことが、当たり前以上のことをささやきはじめるのだ。私のところも四人家族。ご多分に漏れず、子どもたちが小さかったころには、「野遊び」なんて高尚なものではなかったが、あちこちとよく出かけてたっけ。その子どもの小さいほうが、きのう、人並みの袴姿で卒業した。なんだか知らないけれど、ついに「ジ・エンド」という感じである。もはや、家族四人で出かけることもないだろうな。まことに遅きに失した感慨だが、掲句に接して、そんなよしなしごとまで思ってしまった。この若い家族に、幸あれ。俳誌「百鳥」(2001年4月号)所載。(清水哲男)




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