デモ参加者は1%にすぎないとアメリカ高官。後楽園は今宵も満杯と60年安保時の首相。




2003ソスN3ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1732003

 山茱萸の花を電車の高速度

                           糸 大八

山茱萸
語は「山茱萸(さんしゅゆ)の花」で春。別名を「春黄金花(はるこがねばな)」と言い、黄色い小花が球状に集まって咲く。いまごろ、満開のところが多いだろう。作者は、車中の人だ。沿線に山茱萸の群生している場所を知っていて、毎年、開花を心待ちにしている。もう咲くころだと、あらかじめ方角を見定めていたら、果たして咲いていた。いきなり、黄色いかたまりが目に飛び込んできた。が、それも束の間のこと、あっという間に視界から消え去ってしまった。そこで作者は、あらためて「電車の高速度」を感じたというのである。一瞬の出来事を詠むことで、巧みに現代的な季節感を表出している。山茱萸ではないが、東京のJR中央線の東中野駅近辺の土手には、春になるとたくさんの菜の花が咲く。サラリーマン時代には毎春、これが楽しみだった。東京駅方向に乗ると左手に群生していて、数秒間、黄色のかたまりが連なって見える。土手は線路と近接しているため、まさに黄色いかたまりとしか見えない。で、かたまりが見えた後は、なんとなく車内の雰囲気が暖かくなるのだった。桜が咲くと、今度は右側の市ケ谷あたりの土手に目をやることになる。こちらは線路から距離があるので、咲いている様子がよくわかる。それどころか、土手に寝そべっている人たちの姿までもが、よく見えるのだ。最近はめったに電車には乗らないけれど、こういう句を読むと、衝動的に乗ってみたくなる。「俳句研究」(2002年6月号)所載。山茱萸の写真は、群馬大学社会情報学部・青木繁伸氏撮影。(清水哲男)


March 1632003

 けふいちにち食べるものある、てふてふ

                           種田山頭火

頭火は有季定型を信条とした人ではないので、無季句としてもよいのだが、便宜上「てふてふ(蝶々)」で春の部に入れておく。放浪行乞の身の上で、いちばん気がかりなのは、むろん「食べるもの」だ。それが「けふ(今日)いちにち」は保証されたので、久方ぶりに心に余裕が生まれ、「てふてふ」の舞いに心を遊ばせている。好日である。解釈としてはそんなところだろうが、ファンには申し訳ないけれど、私は何句かの例外を除いて、山頭火の句が嫌いだ。ナルシシズムの権化だからである。元来、有季定型の俳句俳諧は、つまるところ世間と仲良くする文芸であり、有季と五七五の心地よい音数律とは、俗な世間との風通しをよくするための、いわばツールなのである。そのツールを、山頭火はあえて捨て去った。捨てた動機については、伝記などから推察できるような気もするし、必然性はあると思うけれど、それはそれとして、捨てた後の作句態度が気に入らない。理由を手短かに語ることは難しいが、結論的に言っておけば、有季定型を離れ俗世間を離れ、その離れた場所から見えたのは自分のことでしかなかったということだ。そんなことは、逆に俗世間の人たちが最も執心しているところではないのか。だからこそ、逆にイヤでも世間とのつながりを付けてしまう有季定型は、連綿として受け入れられてきているのではないのか。せつかく捨てたのだったら、たとえば尾崎放哉くらいに孤立するか、あるいは橋本夢道くらいには社会批判をするのか。どっちかにしてくれよ。と、苛々してしまう。まったくもって、この人の句は「分け入つても分け入つても」自己愛の「青(くさ)い山」である。『種田山頭火句集』(2002・芸林書房)他に所収。(清水哲男)


March 1532003

 玉丼のなるとの渦も春なれや

                           林 朋子

じめての外食生活に入った京都での学生時代。金のやりくりなどわからないから、仕送り後の数日間は食べたいものを食べ、そうしているうちに「資金」が底をついてくる。さすがにあわてて倹約をはじめ、そんなときの夕食によく食べたのが、安価な「玉丼(ぎょくどん)」だつた。「鰻玉丼」だとか「蟹玉丼」なんて、立派なものじゃない。言うならば「素玉丼」だ。丼のなかには、米と卵と薄い「なると」の切れっぱししか入っていない。丼物は嫌いじゃないけれど、毎日これだと、さすがに飽きる。掲句を読んで、当時の味まで思い出してしまった。作者の場合は、むろん玉丼のさっぱりした味を楽しんでいるのだ。「なると」の紅色の渦巻きに「春」を感じながら、上機嫌である。「なると」は、切り口が鳴門海峡の渦のような模様になっていることからの命名らしいが、名づけて妙。食べながら作者は、ふっと春の海を思ったのかもしれない。楽しい句だ。またまた余談になるが、昭和三十年代前半の京都には「カツ丼」というものが存在しなかった。高校時代、立川駅近くの並木庵という蕎麦屋が出していた「カツ丼」にいたく感激したこともあって、京都のそれはどんなものかとあちこち探してみたのだが、ついに商う店を発見できなかった。さすがに今はあるけれど、しかし少数派のようだ。なんでなんやろか。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男)




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