快晴の松本市から遠望した北アルプスのやまなみは、息をのむような美しさでした。




2003ソスN3ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0332003

 古雛をみなの道ぞいつくしき

                           橋本多佳子

年雛祭になると、詩人・高田敏子の小さい文章を思い出す(池田彌三郎監修『四季八十彩』所載)。なのに、毎年タイミングを逸して、ここに書けないできた。今年こそはというわけで、紹介しておく。詩人は、終戦までの三年ほどを、台湾で生活していた。「引揚げとなったのは、終戦翌年の三月末で雛は飾られたまま、(中略)リュックを背負って家を離れる私達を見送ってくれたのです。/戸口を出るとき振りむくと、家財道具もみな処分してしまった部屋に、雛は明るい静けさで座していられて……私はなぜあのとき、内裏さまだけでもかかえにもどらなかったのかと悔やまれています。雛だけは処分するのもつらく、最後まで飾っていたのですのに……。雛はその後どうなったのでしょう。雛の行くえが心にかかっています」。置き去りにせざるを得なかった雛は、長女の初節句に調えたものだった。その「長女に女の子が生まれて、初節句の雛を求めに売場をめぐっていたとき、娘がいいました。『お母さん、なるべくよいのにしてね、もう戦争もないでしょ。いつまでも大事にしてあげられるのですもの。』」。ところで、掲句の前書は次のようだ。「祖母の雛上野の戦火のがれて今も吾と在り」。多佳子の祖母は、彰義隊の戦いにあっている。戦争戦後の混乱のなかで、このほかにも、雛たちのたどった運命はさまざまだろう。いつくしき雛の歴史は、またいつくしき「をみな」の歴史そのものでもある。NO WAR !「古雛」は「ふるびいな」。『信濃』(1946)所収。(清水哲男)


March 0232003

 出替や幼ごころに物あはれ

                           服部嵐雪

は別れの季節。昔もそうだった……。季語は「出替(でがわり)」で春。いまや廃れてしまった風習だ。奉公人が契約期間を終えて郷里に帰り、新しい人と入れ替わること。その日は地方によって一定していないが、半期奉公の人が多かったので、三月と九月に定められていたようだ。三月に郷里に戻る人は、冬の間だけ出稼ぎに来て、戻って本業の農作業に就いた。現代で言う季節労働者である。なお、秋の出替は「後の出替」と言って春のそれと区別していた(曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』参照)。新しい歳時記からは削除された項目だけれど、それでも1974年に出た角川版には掲載されている。たとえば『半七捕物帳』で有名な岡本綺堂の句に「初恋を秘めて女の出代りぬ」があるから、昭和初期くらいまでは普通に通用していた季語であることが知れる。掲句は、半年間慣れ親しんだ奉公人の帰る日が来て、主家の子供が「幼(おさな)ごころ」ながらも、物の「あはれ」を感じている。よほど、その人が好きだったのだろう。もう二度と、会えないかもしれないのだ。相手も去りがたい思いで、別れの挨拶をしたに違いない。この子がもう少し長じていれば、綺堂の句の世界につながっていくところである。『猿蓑』所載。(清水哲男)


March 0132003

 桜餅三つ食ひ無頼めきにけり

                           皆川盤水

まりに美味なので、ついたてつづけに「三つ」も食べてしまった。で、いささか無法なことでもしでかしたような、狼藉を働いたような感じが残ったというのだろう。和菓子は、そうパクパクと食べるものではない。食べたって構わないようなものだが、やはりその姿を楽しみ、香りを味わい賞味するところに、他の菓子類とは違う趣がある。「葉の濡れてゐるいとしさや桜餅」(久保田万太郎)という案配に……。しかし、こんなことを正直に白状してしまっている掲句は、逆に「無頼」とは無縁な作者のつつましい人柄を滲ませていて、好もしい。こうした体験は、誰にでも一度や二度はあるのではなかろうか。大事にしていた高級ブランデーを、つい酔いにまかせてガブガブ飲んじゃったときとか、ま、後のいくつかの例は白状しないでおくけれど、誰に何を言われる筋合いはなくても、人はときとして自分で勝手に「無頼」めき、すぐに反省したりする。そこらへんの人情の機微が的確に捉えられていて、飽きない句だ。なお余談ながら、一般的に売られている桜餅は、一枚の桜の葉を折って餅を包んであるが、東京名物・長命寺の桜餅は大きな葉を三枚使い、折らずに餅が包んである。『随處』(1994)所収。(清水哲男)




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