そうか、明日で二月も終わりなのか。看板の掛け替えを忘れないようにしないと……。




2003ソスN2ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2722003

 うき友にかまれて猫の空ながめ

                           向井去来

語は見当たらないが、句の全体的な意味から「猫の恋」で春。「うき友」は「憂き友」。憎からずおもっていた相手に近寄っていったら、凄い剣幕で「か(噛)まれて」しまった。その後の猫の様子を詠んでいる。失恋だ。何が起きたのか、何故噛まれたのかもよくわからず、ぼおっと空を眺めている猫の姿は、どこか佃公彦あたりの漫画にも通じるようなユーモアを感じさせる。おおかたの現代人はこう読むだろうし、それでもよいのだけれど、生真面目な去来の本意としては、もう少し深刻に読んでほしいというところがあったかもしれない。というのも、本来「ながめ」とは遠くを見渡すことよりも、見つめながら「物思いにふけること」を一義としたからだ。「わが身世にふるながめせしまに」など。つまり、この猫は単に呆然と空を眺めているのではなく、失恋した人間と同じように物思いにふけっているというわけで、一歩も二歩も猫の内面に踏み込んでいる。さぞや苦しかろうと、作者は感情移入しているのだ。こう読んでみると、ユーモアよりもペーソスが滲み出てきて、句の姿はがらりと変わってしまう。となれば、この句、実は猫に託して自分のことを詠んだのではないか。うがち過ぎではあろうが、そんなふうに読んだとしても、いちがいに誤読だとは言えないと思う。『猿蓑』所載。(清水哲男)


February 2622003

 春の月上げて広重美術館

                           遠藤睦子

広重
とえば、古句に森川許六の「清水の上から出たり春の月」があり、現代句に小澤克己の「青き月上げて谷間の河鹿笛」があるなど、類想句は多い。要するに、天上の月に対して地上に何を配するかによって、句の生命が定まる仕掛けだ。前者は「清水(寺)」という京の名刹を置いて美々しさを演出し、後者は見えない河鹿のきれいな鳴き声を配して、近代的な寂寥感を詠んでいる。蕪村が天心の月に「貧しき町」を置いて見せたのも、同じ手法と言ってよいだろう。季節は異っていても、これらの句に共通するのは、月夜の美しさを言うことが第一であり、月の下に配するものは、あくまでも月の引き立て役ということだ。掲句の場合は、配するに「広重美術館」を持ってきた。広重を顕彰する美術館は全国に散在しているので、どこの建物かはわからないが、わからなくても差し支えはない。というのも、この句のねらいは、句それ自身の景色を広重の描いた数々の月の絵と呼応させているところにあるからである。平たく言うと、句の景色がそのまま広重の絵の構図になっている。その面白さ。論より証拠。図版は吉原の夜桜見物を描いているのだが、地上にさんざめく人々を消してしまうと、あら不思議、まさに掲句の構図が忽然と浮かび上がってくるではありませんか。『水の目差』(2001)所収。(清水哲男)


February 2522003

 仮の世をくしゃみの真杉花粉

                           汎 馨子

京あたりでも、そろそろ「杉花粉」が飛びはじめる。私の番組でも、来週から情報を入れることにした。幸い、私は花粉症にかからずに来たけれど、周囲では年々発症する人が増えているようなので、油断がならない。ひどい人の症状は、見ているだけで、こちらも苦しくなってくるほどだ。これからの季節、保健所は「外出を避けるように」と言うが、避けられるものなら、言われなくたって誰だって避けるさ。インフルエンザ流行のときにも同じことを言う。どうも保健所というところは、掲句ではないけれど、この世を「仮」と思い定めているようだ。さて、句の「真」は「まこと」と読む。この世を「仮」と思い定めてはいるものの、止めようにも止められない「くしゃみ」が、その強固な観念をもあっさりと裏切ってしまう。身体の調子が精神のそれを崩すという現象が、すなわち病気の一面であるわけだが、それも「くしゃみ」ごときにやられてしまうのだから、花粉症とは口惜しい病気だ。病状がまず「くしゃみ」となって現れるがゆえに、句は余計にアイロニカルに響いてくる。軽そうに見えて、しかし決して軽くはない苦い一句だ。お大事に。『未完童話』(2002)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます