やってしまいました、ぎっくり腰。歩いているだけでなったのは初めて。完全休養日。




2003ソスN2ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2322003

 春愁や大旋回のグライダー

                           宮嵜 亀

ははなやかな季節だが、その反面、いずれの季節にもない寂しさに誘われる。歳時記で「春愁(しゅんしゅう)」の説明を読むと、たいていこんなふうに書いてある。この微妙な心象風景が季語として定着しているということは、春愁は誰にでも起きることであるのだろうし、たとえ今の自分に起きていなくても、他人の春愁に納得はできるということなのだろう。考えてみれば、不思議な季語だ。春愁なんて言葉を知る以前から、私は春先になると、どうもいけなかった。いわれなき、よるべなき寂しさに襲われては、苦しい時間を過ごすことが多かった。自分では完全に病気だと思っていたけれど、この季語を知ってからは、自分だけではないのかもしれないと気を取り直し、少しは楽になったような気がしている。だとしても、いわれなき寂しさにとらわれるだなんて、やはり一種の病気には違いないだろう。どなたか、専門家のご意見を切にうかがいたい。さて、掲句はそんなやりきれない状態に陥った作者が、大空を悠々と旋回するグライダーを見やっている図だ。春愁の不健康と「大旋回のグライダー」の健康とのミスマッチが、面白い効果をあげている。そのあたりを初手からねらった作句であったとしても、ことさらに企んだ形跡は残されていない。めったに見られないグライダーの飛行を持ちだしてはいても、少しも嫌みが感じられないのは、作者がよほどこの「病気」と親しいからだろう。親しくないと、一見突飛な取り合わせに仕立てておいて、実は突飛ではないところに落としこむ微妙なセンスは発揮できないと見た。なお、作者の名前「亀」は本名で「ひさし」と読む。『未来書房』(2003)所収。(清水哲男)


February 2222003

 春ながら野に南極の昏さあり

                           三宅一鳴

田蛇笏に『現代俳句の批判と鑑賞』という正続二冊の角川文庫があり、続(1954)のほうの目次から見つけた句。目次には採り上げた句と作者名のみが並んでいて、前書や添書は省略されている。実は前書のある句だったのだが、目次だけ見て心引かれ、蛇笏の鑑賞を読む前に、次のように解釈した。どこまでも明るい春の野が広がっている。まことに駘蕩たる気分だ。そんな気分に心を遊ばせているうちに、ふと気づいたことには、春の野は単に明るいばかりではないということだった。明るさのその奥に、何か昏(くら)いものが潜んでいる。見つめていると、ますますそれが実感として迫ってくる。この昏さは何だろうか。一瞬考えて作者は、直覚的に地球の極に思いがいたった。そうだ。はるか地の果ての極の磁力が、かすかに春の野に及んでいるがゆえの昏さなのだ……。眼前の何でもないような光景にも、常に全地球的な力が及んでいるという発見に、おそらく作者は興奮を覚えただろう。おおむねこのように読んで、さて蛇笏の鑑賞や如何にとページを繰ってみたら、句には次の前書があったのだった。「亜國ヴエノスアイレス市より智國サンチアゴ市まで飛行機にて約六時間を翔破す」。句景をてっきり日本の春の野と思い込んでいたので、読んだ途端にショックを受けた。実景だったのか。だったら、相当に解釈が異ってくる。蛇笏は、日ごろの作者の修練のおかげで、俳句が外国の景色の前でもたじろいでいない一例として、句を誉めている。ま、それはその通りなのかもしれないが、この前書さえなければ、もっと良い句なのになアと、いまの私は妙に意固地になっている。(清水哲男)


February 2122003

 朝寝して名刺用なくなりにけり

                           緒方 輝

語は「朝寝」で春。春の朝の寝心地は格別で、うつらうつらとつい寝過ごしてしまう。そんな快適な心地も、よく考えてみれば、寝過ごしてはいけない立場の人のものだろう。作者は、定年退職後のはじめての春を迎えているのだと思える。以前と同じようにうつらうつらとしながらも、もはや「名刺用なく」なった身にとっては、うつらうつらにも従来とは違う感じが伴っているのだ。このまま、いつまでもうつらうつらしていてもよいのだと、誰に文句を言われるわけでなしと、うつらうつらする気分には、しかし、名状しがたい悲しさが付け加わる。私は定年どころか、二十代の後半で勤めた会社が三度も駄目になった体験があるので、定年退職の経験はないけれど、句の言わんとするところは少しはわかるような気がする。少しはと言うのは、私の体験は若い時代のものだったので、まだぼんやりと未来を見つめることができたからだ。が、多くの定年退職者には、再び名刺を必要とするような社会的な明日はないのが普通と考えてよい。当人の意志や思惑とは別に、社会のシステムは極めて冷厳に動いていくのだからである。江戸期の狂歌に「世の中に寝るほど樂はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く」というのがある。失職した当時の私は、こいつを壁に貼り付けて日々眺めていたっけ。この自嘲の歌を笑える「馬鹿」な人は、よほど我が身を幸せと思わなければいけないのである。とりわけて、いまどきの世相のなかでは。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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