ソスソスソスソス迴サソスソス句

February 1022003

 風光る馬上の少女口緊めて

                           長嶺千晶

語は「風光る」で春。馬場で、乗馬の練習をしているのだろう。馬上のきりりとした少女の姿に、早春のやや尖ったような光る風が、よく似合っている。「口緊(し)めて」に着目したところが、いかにも現代的だ。というのも、この国の戦後の少女たちは、いつの頃からか、日常的に口をあまり緊めなくなってきたからである。半開き、というと大袈裟だが、総体的な印象として、口元がかなりゆるやかだ。少なくとも、句の馬上の少女のように、口をちゃんと結んだ表情には、なかなかお目にかかれない。だから、同性の作者にして、はっとするほどに新鮮に写ったというわけである。嘘だと思ったら、古い映像を見てください。戦前はもとより、写真にしろ映画にしろ、戦後しばらくの間までの少女たちは、自然に口元が緊まっていた。きりりという感じがした。それがいつの間にかゆるやかになってきたのは、何故だろうか。誰かひまな人に、ぜひ文化的考察を加えてもらいたいと思う。昨今のテレビに映る発展途上国の少女の口元が、みな緊まっていることを考えると、一つには経済事情と関係がありそうだが、よくわかりません。「目は口ほどにものを言い」ではないけれど、無言の口元だって、目ほどに何かを表現しているのだ。私の独断と偏見によれば、役柄とは無関係に、自然に口元が緊まっていた最後のスクリーンの上の少女は、デビュー当時の薬師丸ひろ子であった。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997)所載。(清水哲男)


October 07102008

 水澄むや水のやうなるビルの壁

                           長嶺千晶

句でまず思い浮かべたのは、表参道に並ぶハナエモリビル。立体的な外壁のガラスに街路樹や空が映る様子に「ああ、東京ってすごい」と、素直に見とれたものだった。丹下健三氏の設計によるこのビルは、映り込みを徹底的に意識して作られたものなので、ことに美しく感じたのだが、それにしても最近の高層ビルは全面がのっぺりと鏡のようになっているものが多い。高層化に伴い空が映ったり、雲が映ったりで美しいかといえば、接近しすぎの隣のビルを映しているだけだったりする。それでもビルに映し出される風景は、どこか虚像めいていて、不思議な感触を覚える。掲句も、無機質なビルの壁を見上げているが、それを「水のやう」とまことに美しく捉えている。都会の風景を瑞々しく表現するのは容易でない。しかも「水澄む」という自然界の季語を扱うことで、現代の都会にも季節が流れ、生活が存在することを実感させている。現代社会に顔をしかめるのではなく、この町のなかで、機嫌良く生きていこうとする作者の姿勢に強く共感する。〈百年の秋風を呼ぶ大樹かな〉〈良夜かな人すれ違ひすれ違ひ〉『つめた貝』(2008)所収。(土肥あき子)


July 1672011

 子等の声単音となる日の盛

                           長嶺千晶

れを書いている今、まさに日の盛。午前中はマグリットぽい雲がたくさん浮かんでいたのだけれど、今は雲ひとつなく太陽が照りつけている。おそるおそるベランダに出てみたが人通りも風もわずか、自分のため息の音がするばかりだ。掲出句の、単音、という言葉、聞いたことがあるような無いような。辞書を引くと、「(略)連続的な音声を個々に区切られる諸部分に分解して得られる最小の単位。汗(あせ)は〔a〕〔s〕〔e〕の単音からなる。」(大辞林)とある。なるほど、校庭に公園に元気に響いている子供の声が、炎天下ふっと遠ざかってゆくような、とぎれとぎれになるような気がすることがある、あの感じか。歓声がぱらぱらのアルファベットになって溶けてしまいそうな暑さだ。『夏館』(2003)所収。(今井肖子)


October 29102013

 長き夜の外せば重き耳飾

                           長嶺千晶

中身につけているときには感じられないが、取り外してみてはじめてその重さに気づくものがある。自宅に帰って、靴を脱ぐ次の行為は、イヤリング、腕時計の順であろう。化粧や服装などと同様、女の身だしなみであるとともに外部との武装でもあることを考えれば、昼間はその重みがかえって心地よいものに思えるのかもしれない。装飾品を取り外しながら、ひとつずつ枷を外していく解放感と同時にむきだしになることの心細さも押し寄せる。深々としずかな闇だけが、女の不安をやわらげることができるのだ。『雁の雫』(2013)所収。(土肥あき子)


March 0632015

 尖塔になほ空のあり揚雲雀

                           長嶺千晶

の尖塔にはポルトガル行六句の前書きがある。牧歌的な農村に広がっているのは麦畑だろうか。そんな畑中にひとかたまりの村落があり、各村落ごとに教区を割り当てられた教会がある。その古びた教会の尖塔の上にはなお高く空が広がっている。その尖塔により強調された空の高みへ雲雀が囀り上ってゆく。そんな高みの中に命の讃歌をさんざんに唄いあげて、やがて雲雀は急転直下落ちて行く。受け止める大地と麦畑がそれを待っている。他に<木犀の香りや不意に話したき><騎馬少女黄葉かつ散る時の中><白鳥といふ凍りつく白さかな>などあり。『つめた貝』(2008)所収。(藤嶋 務)




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