January 272003
冬薔薇に開かぬ力ありしなり青柳志解樹いまでこそ「冬薔薇(ふゆばら・ふゆそうび)」も一般的になったが、栽培の歴史を読むと、冬に薔薇を咲かせるのは大変だったらしい。気が遠くなるほどの品種改良が重ねられ、四季咲きが定着したのは戦後になってからだ。句の冬薔薇は栽培によるものか天然のものかはわからないが、いずれにしても、ついに咲かなかった薔薇である。それを作者は残念と言わずに、咲かなかったのは「薔薇に開かぬ力」があったからだと、肯定している。いわば薔薇の身になり代わって、咲かない理由を述べているのだ。花は咲くもの。なんとなく私たちはそう思っているが、そんな常識は非常識だと、作者は言おうとしているのだと思う。開く力があるのであれば、植物には本源的に「開かぬ力」というものもあるのだ。こんな寒空に、無理やりに咲かされてたまるものか。擬人化すれば、そんな意志が薔薇にはあり、かつては「ありしなり」と、昔は咲かぬのも常識のうちだった。それが、どうだろう。最近の冬薔薇はみな、ぽわぽわと能天気に咲いてしまう。しまりというものがない。あの凛とした「開かぬ力」は、どこへいったのか。だんだん句が、薔薇のことではなく、我ら人間のことを詠んだふうに見えてくるから面白い。余談になるが、中世ヨーロッパでは、枯れた薔薇は壺に入れて厳重に保管されたという。その壺を「薔薇の壺」と称したが、転化して「秘密の奥義」を意味するようになったというから、如何に薔薇が珍重されていたかがうかがわれる。L・ギヨーとP・ジバシエの書いた『花の歴史』(串田孫一訳・文庫クセジュ)のなかに、十五世紀のロンドの一節が紹介されている。「あなたの唇の閉じられた扉を/賢明に守ることを考えなさい。/バラの壺をみつける言葉を/外へ漏らさないように」。「開かぬ力」が、ここでも称揚されている。『松は松』(1992)所収。(清水哲男) January 262003 外はみぞれ、何を笑ふやレニン像太宰 治大 January 252003 ひとかどの女の如し山眠る守屋明俊季語は「山眠る」で冬。こういう句を読むと、俳句って愉快だなあと思う。俳句雑誌の句をぱらぱら拾い読みしていて、たいていは失礼ながらすうっと通りすぎてしまうのだが、ときどき急ブレーキをかけることがある。掲句も、そうだった。むろん、引っ掛かるものがあったからだ。つまり「ひとかどの女」という表現に、立ち止まらされてしまったのである。たいてい「ひとかどの」とくれば「男」に決まっているだろうが。えっ、なぜ「女」なんだと、眼をこすった。こうなれば、もう作者の勝ちである。負けた私(笑)は、しょうことなく、何度か繰り返し読むことになった。で、いろいろと眠る山と女を関係づける普遍性必然性は那辺にありや、などと思いをめぐらせてみることになった。普遍性必然性については、すぐに納得できたような気がする。「ひとかどの男」であれば、どんなことがあろうとも、眠ったりはしないだろう。ところが「女」は、そこらへんで「男」とは違いがありそうだ。図太いというのとはだいぶニュアンスに差があるのだけれど、神経のありどころが「男」とは違っているところがあるのは確かだ。だから、句に「男」とあったなら、面白くも何ともない。ただ、眠る山がだらしなく写るばかりだからある。そこへいくと、女の寝姿に見立てた作者の感性はなかなかのもの。それもなまじな女ではなく「ひとかどの女」なのだから、素晴らしい。と言いつつも、はて「ひとかどの女」って、どんな女なのかは、私にはまったくわからない。そこで邪推に近い言い方になるが、実は作者にもよくわかっていないのだと思った。でも、それでいいのだ。この句に滲んでいるのは、作者の女性観の一端だろう。それが、冬の山を句にしようとしているうちに、ぽろりと口をついて出てきちゃったということだろう。俳句なればこそ、こういうことが起きるのである。「俳句」(2003年2月号)所載。(清水哲男)
|