看板はプロ写真家の柳田晴美(男性)さんの写真。全国の廃船を撮影してまわっている。




2003ソスN1ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2012003

 大寒の堆肥よく寝てゐることよ

                           松井松花

日は「大寒(だいかん)」。一年中で、最も寒い日と言われる。大寒の句でよく知られているのは、虚子の「大寒の埃の如く人死ぬる」や三鬼の「大寒や転びて諸手つく悲しさ」あたりだろう。いずれも厳しい寒さを、心の寒さに転化している。引き比べて、掲句は心の暖かさにつなげているところがユニークだ。「堆肥(たいひ)」は、わら、落葉、塵芥、草などを積み、自然発酵させて作る肥料のこと。寒さのなかで、じわりじわりとみずからの熱の力で発酵している様子は、まさに「よく寝ていることよ」の措辞がふさわしく、作者の微笑が伝わってくる。一部の歳時記には「大寒」の異称に「寒がはり」があげられているが、これは寒さの状態が変化するということで、すなわち暖かい春へ向けて季節が動きはじめる頃という意味だろう。実際、この頃から、梅や椿、沈丁花なども咲きはじめる。寒さに強い花から咲いていき、春がそれこそじわりじわりと近づいてくる。そういうことを思うと、大寒の季語に託して心の寒さが多く詠みこまれるようになったのは、近代以降のことなのかもしれない。昔の人は、大寒に、まず「春遠からじ」を感じたのではないだろうか。一茶の『七番日記』に「大寒の大々とした月よかな」がある。情景としては寒いのだが、「大々(だいだい)とした月」に、掲句の作者に共通する心の暖かさが現れている。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 1912003

 野山獄址寒しひと筋冬日射し

                           岡部六弥太

野山獄
は、日が射しているだけに、余計に「寒し」と感じるときがある。それが「野山獄址(のやまごく・し)」という牢獄の跡の情景ともなれば、なおさらだろう。現在の山口県萩市にあり、吉田松陰が海外密航に失敗して投ぜられたことで有名な牢屋だ。なんだかずいぶん昔の話のようだけれど、ペリーが黒船で乗り込んできてから、まだ百五十年しか経ってはいない。「野山獄」の起こりは傑作だ。いや当事者には悲劇でしかないのだが、こういう話が残っている。正保二年(1645年)九月十七日夜、毛利藩士・岩倉孫兵衛が酒に酔って、道を隔てた西隣りの藩士・野山六右衛門宅に切り込み、家族を殺傷した。ために岩倉は死罪となり、両家とも取りつぶされて、屋敷は藩の獄となった。野山宅であった野山獄は上牢として士分の者を収容し、加害者宅の岩倉獄は下牢として庶民を収容した。したがって、吉田松陰は野山獄に、その時の従者・金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられている。作者は、もとより松陰らの数奇な運命に思いをはせて、余計に寒さを感じているのだが、この話を知ると、むしろこちらの無名の武士たちの屋敷跡だったことに、言い知れぬ寒さを覚えてしまう。馬鹿なことをしたものだ。とは、直接に関係のない者の、常の言い草だ。その意味では、幕府にへいこらしていた毛利藩のやりくちを百も承知で、過激な挙に出た松陰も馬鹿な男だったと言える。わずか三十歳で、おめおめと首を斬られることもなかったろうに……。どんな歴史にも「ひと筋」の日は射しているがゆえに、寒いなあと思う。自分史も、また。『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 1812003

 人間の眼もていどめる二羽や闘鶏図

                           文挟夫佐恵

布袋見闘鶏図
語は「闘鶏(とうけい)」で春。平安期の宮中で、春先、盛んに行われたことから。「鶏合(とりあわせ)」とも。句は、闘鶏そのものではなく、その様子が描かれた絵を見て詠んだわけだが、なるほどと膝を打った。誰が描いた「闘鶏図」かは知らねども、闘う鶏の「眼」が「人間(ひと)の眼」をしているというのはうなずける。一見客観写生に見えて、しかし絵もまた鶏を擬人化して描いているのだ。闘う鶏本来の「眼」をそのままに描くと、闘う様子に迫力が出ない。どうしても鶏に、人間の闘う眼を持たせないと、絵が説得力に欠けてしまうからである。このことを見抜いた作者の「眼」が、素晴らしい。私などはいつもぼんやり見ているだけだから、思いもしないできた発想だ。この句を知った以上、今後は闘鶏図にかぎらず、動物の絵の「眼」に関心を持たざるを得ないだろう。たとえば鹿の絵の柔和な眼も、狼の絵の射すくめるような眼も、ほとんどが実は「人間の眼」ではないのだろうか。美術全集でも開きたくなってきた。ところで闘鶏図といえば、宮本武蔵の山水画『布袋見闘鶏図』が有名だ。図版が小さすぎて、鶏の眼が描かれているとしても見えないのは残念だけれど、掲句を読んだおかげで、眼のありようが想像できて楽しい。ただし、この構図は武蔵のオリジナルではなく、伝・海北友松(安土桃山期の画家)の同名の絵とそっくりである。両者をしかと見比べた人の話では、武蔵の鶏は闘う姿勢にはなく、なんだか仲良く遊んでいるように見えるそうだ。となると、武蔵は鶏に「人間の眼」を持たせなかったのかもしれない。あるいは、単に下手くそだったのかも……。「俳句研究」(2003年2月号)所載。(清水哲男)




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