火災報知器の定期検査があった。異常なしだった。でも、報知器の仕組みは知らない。




2003ソスN1ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1912003

 野山獄址寒しひと筋冬日射し

                           岡部六弥太

野山獄
は、日が射しているだけに、余計に「寒し」と感じるときがある。それが「野山獄址(のやまごく・し)」という牢獄の跡の情景ともなれば、なおさらだろう。現在の山口県萩市にあり、吉田松陰が海外密航に失敗して投ぜられたことで有名な牢屋だ。なんだかずいぶん昔の話のようだけれど、ペリーが黒船で乗り込んできてから、まだ百五十年しか経ってはいない。「野山獄」の起こりは傑作だ。いや当事者には悲劇でしかないのだが、こういう話が残っている。正保二年(1645年)九月十七日夜、毛利藩士・岩倉孫兵衛が酒に酔って、道を隔てた西隣りの藩士・野山六右衛門宅に切り込み、家族を殺傷した。ために岩倉は死罪となり、両家とも取りつぶされて、屋敷は藩の獄となった。野山宅であった野山獄は上牢として士分の者を収容し、加害者宅の岩倉獄は下牢として庶民を収容した。したがって、吉田松陰は野山獄に、その時の従者・金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられている。作者は、もとより松陰らの数奇な運命に思いをはせて、余計に寒さを感じているのだが、この話を知ると、むしろこちらの無名の武士たちの屋敷跡だったことに、言い知れぬ寒さを覚えてしまう。馬鹿なことをしたものだ。とは、直接に関係のない者の、常の言い草だ。その意味では、幕府にへいこらしていた毛利藩のやりくちを百も承知で、過激な挙に出た松陰も馬鹿な男だったと言える。わずか三十歳で、おめおめと首を斬られることもなかったろうに……。どんな歴史にも「ひと筋」の日は射しているがゆえに、寒いなあと思う。自分史も、また。『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 1812003

 人間の眼もていどめる二羽や闘鶏図

                           文挟夫佐恵

布袋見闘鶏図
語は「闘鶏(とうけい)」で春。平安期の宮中で、春先、盛んに行われたことから。「鶏合(とりあわせ)」とも。句は、闘鶏そのものではなく、その様子が描かれた絵を見て詠んだわけだが、なるほどと膝を打った。誰が描いた「闘鶏図」かは知らねども、闘う鶏の「眼」が「人間(ひと)の眼」をしているというのはうなずける。一見客観写生に見えて、しかし絵もまた鶏を擬人化して描いているのだ。闘う鶏本来の「眼」をそのままに描くと、闘う様子に迫力が出ない。どうしても鶏に、人間の闘う眼を持たせないと、絵が説得力に欠けてしまうからである。このことを見抜いた作者の「眼」が、素晴らしい。私などはいつもぼんやり見ているだけだから、思いもしないできた発想だ。この句を知った以上、今後は闘鶏図にかぎらず、動物の絵の「眼」に関心を持たざるを得ないだろう。たとえば鹿の絵の柔和な眼も、狼の絵の射すくめるような眼も、ほとんどが実は「人間の眼」ではないのだろうか。美術全集でも開きたくなってきた。ところで闘鶏図といえば、宮本武蔵の山水画『布袋見闘鶏図』が有名だ。図版が小さすぎて、鶏の眼が描かれているとしても見えないのは残念だけれど、掲句を読んだおかげで、眼のありようが想像できて楽しい。ただし、この構図は武蔵のオリジナルではなく、伝・海北友松(安土桃山期の画家)の同名の絵とそっくりである。両者をしかと見比べた人の話では、武蔵の鶏は闘う姿勢にはなく、なんだか仲良く遊んでいるように見えるそうだ。となると、武蔵は鶏に「人間の眼」を持たせなかったのかもしれない。あるいは、単に下手くそだったのかも……。「俳句研究」(2003年2月号)所載。(清水哲男)


January 1712003

 風花や貌あげて鳴くとりけもの

                           長篠旅平

語は「風花(かざはな)」で冬。晴天にちらつく雪。誰が名づけたのか、美しいネーミングだ。盛んに使われるようになったのは、明治以降という。風花が来ると、人は「ああ」と言うように空を仰いで、しばらく見つめる。風花に「とりけもの」が反応するかどうかは別問題として、そういえば、彼らが「鳴く」ときは「貌(かお)あげて」いることに思いがいたった。でも、人は貌をあげても鳴かない。あるいは、泣かない。しかし、彼らと同じ動物としての人は、やはり同様に、声にこそ出さないけれど、貌をあげて鳴いている(泣いている)のではなかろうか。それが本来かもしれないと、すっと「とりけもの」にシンパシーを感じた一瞬だろうと読めた。このときに「とりけもの」の表記が「鳥獣」であれば、むしろ違和感を与えるところだが、平仮名にすることによって、気持ちが彼らに溶け込んでいる。外国語には翻訳できない日本語ならではの妙と言うべきか。ところで、句の解釈とは直接の関係はないが、この「けもの」という言葉を、私たちが日常的にまったくと言ってよいほど使わないのは、何故だろう。「とり」は使うし「さかな」も使う。「はな」や「くさ」や「き」も、頻繁に使う。何故「けもの」だけが別扱いというのか、まるで文語のようになってしまっているのか。とても気になる。『今はじめる人のための俳句歳時記』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)




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