さて、本を片づけるか。と、休みごとに思うのですが、ままならず。今日はどうかな。




2003ソスN1ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1812003

 人間の眼もていどめる二羽や闘鶏図

                           文挟夫佐恵

布袋見闘鶏図
語は「闘鶏(とうけい)」で春。平安期の宮中で、春先、盛んに行われたことから。「鶏合(とりあわせ)」とも。句は、闘鶏そのものではなく、その様子が描かれた絵を見て詠んだわけだが、なるほどと膝を打った。誰が描いた「闘鶏図」かは知らねども、闘う鶏の「眼」が「人間(ひと)の眼」をしているというのはうなずける。一見客観写生に見えて、しかし絵もまた鶏を擬人化して描いているのだ。闘う鶏本来の「眼」をそのままに描くと、闘う様子に迫力が出ない。どうしても鶏に、人間の闘う眼を持たせないと、絵が説得力に欠けてしまうからである。このことを見抜いた作者の「眼」が、素晴らしい。私などはいつもぼんやり見ているだけだから、思いもしないできた発想だ。この句を知った以上、今後は闘鶏図にかぎらず、動物の絵の「眼」に関心を持たざるを得ないだろう。たとえば鹿の絵の柔和な眼も、狼の絵の射すくめるような眼も、ほとんどが実は「人間の眼」ではないのだろうか。美術全集でも開きたくなってきた。ところで闘鶏図といえば、宮本武蔵の山水画『布袋見闘鶏図』が有名だ。図版が小さすぎて、鶏の眼が描かれているとしても見えないのは残念だけれど、掲句を読んだおかげで、眼のありようが想像できて楽しい。ただし、この構図は武蔵のオリジナルではなく、伝・海北友松(安土桃山期の画家)の同名の絵とそっくりである。両者をしかと見比べた人の話では、武蔵の鶏は闘う姿勢にはなく、なんだか仲良く遊んでいるように見えるそうだ。となると、武蔵は鶏に「人間の眼」を持たせなかったのかもしれない。あるいは、単に下手くそだったのかも……。「俳句研究」(2003年2月号)所載。(清水哲男)


January 1712003

 風花や貌あげて鳴くとりけもの

                           長篠旅平

語は「風花(かざはな)」で冬。晴天にちらつく雪。誰が名づけたのか、美しいネーミングだ。盛んに使われるようになったのは、明治以降という。風花が来ると、人は「ああ」と言うように空を仰いで、しばらく見つめる。風花に「とりけもの」が反応するかどうかは別問題として、そういえば、彼らが「鳴く」ときは「貌(かお)あげて」いることに思いがいたった。でも、人は貌をあげても鳴かない。あるいは、泣かない。しかし、彼らと同じ動物としての人は、やはり同様に、声にこそ出さないけれど、貌をあげて鳴いている(泣いている)のではなかろうか。それが本来かもしれないと、すっと「とりけもの」にシンパシーを感じた一瞬だろうと読めた。このときに「とりけもの」の表記が「鳥獣」であれば、むしろ違和感を与えるところだが、平仮名にすることによって、気持ちが彼らに溶け込んでいる。外国語には翻訳できない日本語ならではの妙と言うべきか。ところで、句の解釈とは直接の関係はないが、この「けもの」という言葉を、私たちが日常的にまったくと言ってよいほど使わないのは、何故だろう。「とり」は使うし「さかな」も使う。「はな」や「くさ」や「き」も、頻繁に使う。何故「けもの」だけが別扱いというのか、まるで文語のようになってしまっているのか。とても気になる。『今はじめる人のための俳句歳時記』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


January 1612003

 寒卵煙も見えず雲もなく

                           知久芳子

語は「寒卵(かんたまご)」で冬。寒中の鶏卵は栄養価が高く、また保存が効くので珍重されてきた。が、いまどきの卵を「寒卵」と言われても、もはやピンとこなくなってしまった。割った具合からして、いつもと同じ感じがする。それはともかく、掲句の卵は見事な寒卵だ。黄身が平素のものよりも盛り上がり、全体に力がみなぎっている様子がうかがえる。まさに一点のくもりもなく、椀に浮いているのだ。それを大袈裟に「煙も見えず雲もなく」と言ったところに、面白い味が出た。このときに「煙も見えず雲もなく」とは、あまりにも見事な卵の様子に、思わず作者の口をついて出た鼻歌だろう。というのも、この中七下五は、日清戦争時の軍歌「勇敢なる水兵」の出だしの文句だからだ。佐々木信綱の作詞。この後に「風も起こらず波立たず/鏡のごとき黄海は/曇り初めたり時の間に」とつづく。八番まである長い歌で、黄海の海戦で傷つき死んでいった水兵を讚える内容である。内容の深刻さとは裏腹に、明るいメロディがついていて、おかげでずいぶんと流行したらしい。しかし、作者は昨日付の宗因句のように、パロディを意識してはいない。したがって、好戦や反戦とは無関係。卵を割ったとたんに、ふっと浮かんできた文句がこれだった。すなわち鼻歌と言った所以だが、歌も鼻歌にまでなればたいしたものである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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