ようやく本日をもって私の仕事納め。明日明後日が正月だ。何もしないで過ごしたい。




2003ソスN1ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0312003

 勝独楽は派手なジャケツの子供かな

                           上野 泰

語は「独楽(こま)」で新年。凧(たこ)と並んで、正月の男の子の代表的な玩具だった。情景は喧嘩独楽で、同時に回して相手をはじき飛ばしたほうが勝ち。たまたま通りかかった作者が、勝負や如何にと眺めていると、勝ったのは「派手なジャケツの子供」だった。それだけの句であるが、ここには作者の「やっぱりね」という内心がのぞいている。むろん「派手なジャケツ」は親に着せてもらっているのだけれど、その子供がその場を仕切る、ないしは支配する雰囲気とよくマッチしていて、「やっぱりね」とつぶやくしかないのである。こういう子供はよくいるものだし、私が子供だったころにもいた。そして面白いのは、この子に支配された関係が、大人になってもつづいていくことだ。クラス会などで出会うと、職業も違い、住んでいる場所も離れていてすっかり忘れていたのに、会った途端から、すうっと昔の関係に戻ってしまう。思わずも、身構えたくなったりする。これは、どういうことなのか。作者はおそらく、そうした未来の関係をも見越した上で、詠んだのではないだろうか。「派手なジャケツの子供」は一生涯派手にふるまい、地味で負けてばかりいる子供は、一生ウダツが上がらない。と、ここまで言うと極端に過ぎようが、しかし、子供のころに自然にできあがった関係は、なかなか解消できるものではないだろう。自分の子供時代を振り返ってみると、いちばんよくわかるはずだ。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)


January 0212003

 夢はじめ現はじめの鷹一つ

                           森 澄雄

語は「夢はじめ(初夢)」で新年。年のはじめに見る夢のことだが、正月二日の夜に見る夢とも、節分の夜に見る夢ともいう。現代では、今夜の夢を指すことが多いようだ。私も、子供の頃にそう教えられた。「一富士、二鷹、三茄子」と言い、古来これらが初夢に現れると、縁起がよいとされてきた。だから作者は良い夢を見たことになるのだけれど、しかし、あの「鷹」は夢のなかに飛んでいたのではなくて、もしかしたら「現(うつつ)」に見た実景かもしれないと思い返している。すなわち、作者は昨夜見たばかりの夢のことを詠んだのではなくて、もうずっと以前の正月の夢を回顧しているのだ。その意味では珍しい初夢句と言えるが、言われてみれば、初夢にかぎらず、こういうことはよく起きる。あれは「夢」だったのか、それとも「現」だったのか。今となってはどちらとも言い難い情景が、ぼんやりとではなく、はっきりと自分のなかに刻まれて、ある。心理学的には、おそらく説明はつくのだろうが……。いずれにしても、句の手柄はそうしたあやふやな認識を、あやふやにではなく、そのままにはっきりと打ちだしたところにあるだろう。この「鷹一つ」は、読者の目にも、はっきりと見える。『浮鴎』(1973)所収。(清水哲男)


January 0112003

 世に在らぬ如く一人の賀状なし

                           皆吉爽雨

ぶん、作者のほうからは、毎年「賀状」を出しているのだ。にもかかわらず、相手からは、今年も来なかった。すなわち、相手は「世に在らぬ如く」に思えるというわけだが、実際にはそんなことはない。ちゃんと「世に在る」ことは、わかっている。しかも、元気なことも知っている。賀状を書かないのが、彼の流儀なのかどうか。とにかく、昔から賀状を寄越したことがない。実は、私にも、そういう相手がいる。同性だ。こちらは気になっているのだから、はがき一枚くらい寄越したっていいじゃないかと、単純に思う。だが、彼からは「うん」でもなければ「すう」でもないのだ。となると年末に、もうこちらから出すのは止めにしようかと、一瞬思ったりもするが、気を取り直して、とりあえずはと、出してしまう。それだけ、当方には親近感がある人なのだ。でも、来ない。そうなると、年々ますます気にかかるのだけれど、どうしようもない。ま、今日も来ないでしょうね。そんな具合に、年賀状には人それぞれに、けっこうドラマチックな要素がある。青春期の異性への賀状などは、その典型だろう。昨年末は調子が悪く、私は書かないままに、多く残してしまった。こんなことは、あまりないことだった。いまだ「世に在る」私としては、今日は仕事から一目散に戻ってきて、年賀状書きに邁進することになるだろう。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)




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