January 012003
世に在らぬ如く一人の賀状なし皆吉爽雨たぶん、作者のほうからは、毎年「賀状」を出しているのだ。にもかかわらず、相手からは、今年も来なかった。すなわち、相手は「世に在らぬ如く」に思えるというわけだが、実際にはそんなことはない。ちゃんと「世に在る」ことは、わかっている。しかも、元気なことも知っている。賀状を書かないのが、彼の流儀なのかどうか。とにかく、昔から賀状を寄越したことがない。実は、私にも、そういう相手がいる。同性だ。こちらは気になっているのだから、はがき一枚くらい寄越したっていいじゃないかと、単純に思う。だが、彼からは「うん」でもなければ「すう」でもないのだ。となると年末に、もうこちらから出すのは止めにしようかと、一瞬思ったりもするが、気を取り直して、とりあえずはと、出してしまう。それだけ、当方には親近感がある人なのだ。でも、来ない。そうなると、年々ますます気にかかるのだけれど、どうしようもない。ま、今日も来ないでしょうね。そんな具合に、年賀状には人それぞれに、けっこうドラマチックな要素がある。青春期の異性への賀状などは、その典型だろう。昨年末は調子が悪く、私は書かないままに、多く残してしまった。こんなことは、あまりないことだった。いまだ「世に在る」私としては、今日は仕事から一目散に戻ってきて、年賀状書きに邁進することになるだろう。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男) January 022003 夢はじめ現はじめの鷹一つ森 澄雄季語は「夢はじめ(初夢)」で新年。年のはじめに見る夢のことだが、正月二日の夜に見る夢とも、節分の夜に見る夢ともいう。現代では、今夜の夢を指すことが多いようだ。私も、子供の頃にそう教えられた。「一富士、二鷹、三茄子」と言い、古来これらが初夢に現れると、縁起がよいとされてきた。だから作者は良い夢を見たことになるのだけれど、しかし、あの「鷹」は夢のなかに飛んでいたのではなくて、もしかしたら「現(うつつ)」に見た実景かもしれないと思い返している。すなわち、作者は昨夜見たばかりの夢のことを詠んだのではなくて、もうずっと以前の正月の夢を回顧しているのだ。その意味では珍しい初夢句と言えるが、言われてみれば、初夢にかぎらず、こういうことはよく起きる。あれは「夢」だったのか、それとも「現」だったのか。今となってはどちらとも言い難い情景が、ぼんやりとではなく、はっきりと自分のなかに刻まれて、ある。心理学的には、おそらく説明はつくのだろうが……。いずれにしても、句の手柄はそうしたあやふやな認識を、あやふやにではなく、そのままにはっきりと打ちだしたところにあるだろう。この「鷹一つ」は、読者の目にも、はっきりと見える。『浮鴎』(1973)所収。(清水哲男) January 032003 勝独楽は派手なジャケツの子供かな上野 泰季語は「独楽(こま)」で新年。凧(たこ)と並んで、正月の男の子の代表的な玩具だった。情景は喧嘩独楽で、同時に回して相手をはじき飛ばしたほうが勝ち。たまたま通りかかった作者が、勝負や如何にと眺めていると、勝ったのは「派手なジャケツの子供」だった。それだけの句であるが、ここには作者の「やっぱりね」という内心がのぞいている。むろん「派手なジャケツ」は親に着せてもらっているのだけれど、その子供がその場を仕切る、ないしは支配する雰囲気とよくマッチしていて、「やっぱりね」とつぶやくしかないのである。こういう子供はよくいるものだし、私が子供だったころにもいた。そして面白いのは、この子に支配された関係が、大人になってもつづいていくことだ。クラス会などで出会うと、職業も違い、住んでいる場所も離れていてすっかり忘れていたのに、会った途端から、すうっと昔の関係に戻ってしまう。思わずも、身構えたくなったりする。これは、どういうことなのか。作者はおそらく、そうした未来の関係をも見越した上で、詠んだのではないだろうか。「派手なジャケツの子供」は一生涯派手にふるまい、地味で負けてばかりいる子供は、一生ウダツが上がらない。と、ここまで言うと極端に過ぎようが、しかし、子供のころに自然にできあがった関係は、なかなか解消できるものではないだろう。自分の子供時代を振り返ってみると、いちばんよくわかるはずだ。『佐介』(1950)所収。(清水哲男) January 042003 兄弟の手のうち十六むさしかな木口六兵衛季 January 052003 門松に結晶体の雪刺さる林 翔正月三が日の東京は、ことのほか寒かった。元日には、気がつかない人もいたくらいにわずかではあったが、四十四年ぶりの雪。二日の未明にも降り、三日の昼間にはうっすらと積もるほどに降った。過去百年以上の気象統計からしても、だいたい東京の三が日は「晴れて風なし」の年がほとんどなので、余計に寒さが身にしみた。とくに三日の晴天率は八割を越えていて、文化の日をはるかにしのぐ晴れの特異日なのである。「この天気ではねえ……」と、商店街のおやじさんも嘆いていた。掲句の「雪」の情景は、今年の三日のそれにぴったりだと感じた。昼頃から霙(みぞれ)が降りはじめ、やがてちゃんとした雪に変わったのだが、その変わり目ころの雪の様子は、まさに「結晶体」が「刺さる」ように落ちてくるという感じだった。雪が水の結晶体だという理科の教室での理屈を越えて、どうしても「結晶体の雪」としか体感的に表現しようがない「雪」というものがある。と、句を読んで大いに納得。それが「門松」のとんがった竹や松の葉に「刺さる」のだから、寒さも寒し、読むだけでぶるぶるっときてしまう。巧みな表現だと感服しながら、一方で、雪国のみなさんには、案外こういう句はわからないかもしれないとも思った。めったに降雪のない地方ならではの「雪」であり「結晶体」であり、寒さなのだから。「俳句」(2003年1月号)所載。(清水哲男) January 062003 羽子板に残る遊侠世紀晴的野 雄弱 January 072003 鏡餅のあたりを寒く父母の家林 朋子職場のオフィスに飾ってあった「鏡餅」に、正月二日ころから黴がつきはじめた。暖房のせいだ。鏡開きの十一日(地方によって違いはあるが)までは、とても持ちそうもない。オフィスでなくとも、最近の家庭の暖房も進化したので、たくさんの部屋があるお宅は別にして、お困りのご家庭も多いことだろう。団地やマンションなど密閉性の高い住居だと、もう黴が生えていたとしても当然である。たぶん、作者の普段の住居もそんな環境にあるのだ。それが、新年の挨拶に実家に出向いてみると、黴ひとつついていない。堂々としたものである。飾ってあるところは、昔ながらの床の間か神棚だろう。黴ひとつないのは、むろん部屋全体が寒いためなのだけれど、それをそう言わずに、あえて「鏡餅のあたりを寒く」と焦点を鏡餅の周辺に絞り込んだところに、作者の表現の粋(いき)が出た。同時に、日ごろの「父母」の暮しのつつましさに思いが至ったことを述べている。正直言って、自分の家に比べるとかなり寒い。こんなに寒い部屋で、父母はいつも暮らしているのか。そして、かつての私も暮らしていたのか。ちょっと信じられない思いのなかで、作者はあらためて、これが「父母の家」というものなのだと感じ入っている。『眩草』(2002)所収。(清水哲男) January 082003 焼跡に遺る三和土や手毬つく中村草田男季語は「手毬(てまり)」で新年。どんな歳時記にでも載っている句、と言っても過言ではあるまい。「焼跡」は、むろんかつての大戦の空襲でのそれだ。以前のたたずまいなどはわからないほどに焼け落ちてしまった家の跡に、わずかに「三和土(たたき)」だけが、そのままに遺(のこ)った。三和土は、土間のこと。そこで、小さな女の子がひっそりと毬つきをしているという敗戦直後の正月風景だ。「国破れて山河あり」などと言うが、敗戦国の民のほとんどは、そんなふうに自然と向き合うだけで達観できるわけもない。明日をも知れぬ生活をおもんぱかりつつ、ふと通りがかりに見かけた女の子の毬をつく姿に、作者はどんなに慰められたことだろう。おのずから、涙が溢れてくるほどの感動を覚えたにちがいない。それを草田男は、見られるとおりに、できるだけ散文的に描写することですませている。そっけないほどに、淡々とした書きぶりだ。感動の「カ」の字も書いてはいない。何故か。実は、やはり心のうちでは泣いているからなのだ。泣いているがゆえに、必死に感情に溺れまいとして、突然の恩寵の源を客観的に書き留めようとしたのだと思う。すなわち、このときの草田男の脳裡に読者はいない。自分だけの記録、自分のためだけの光景としてしっかりと書き留め、長く手元に残しておきたかった……。涙を拭って撮った「スナップ写真」とでも言えば、多少とも当たっているだろうか。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男) January 092003 本買へば表紙が匂ふ雪の暮大野林火林火、若き日の一句。本好きの人には、解説はいらないだろう。以前から欲しいと思っていた本を、ようやく買うことができた嬉しさは、格別だ。「表紙」をさするようにして店を出ると、外は小雪のちらつく夕暮れである。いま買ったばかりの本の表紙から、新しいインクの香りがほのかにたちのぼって、また嬉しさが込み上げてくる。ちらつく雪に、ひそやかに良い香りが滲んでいくような幸福感。この抒情は、若者のものだ。掲句に接して、私も本が好きでたまらなかった高校大学時代のことを思い出した。あの頃は、本を買うのにも一大決心が必要だった。欲しい本は、たいていが高価だったので、そう簡単には手に入らない。わずかな小遣いをやりくりして、買った。やりくりしている間に、目的の本が売れてしまうのではないかと心配で、毎日書店の棚を確かめに通ったものだ。おかげで、出入りした本屋の棚の品揃えは、諳(そら)んじてしまっていた。ついでに思い出したのは、生まれてはじめて求めた単行本のことだ。忘れもしない、田舎にいた小学校六年生のときである。貧乏だったので、修学旅行には行かせてもらえなかった。が、父はさすがに哀れと思ったのだろう。そのかわりに、好きな本を一冊買ってやるからと、交換条件を出してくれたのだ。で、その日から、新聞一面下の八つ割り広告を舐めるように調べ上げ(なにしろ、村には本屋がなかったので)、絞りに絞った単行本を、東京の出版社まで郵便振替で注文してもらった。修学旅行もとっくに終わってしまったころに、ようやく東京から分厚い本が届いた。私はその分厚さにも感動して、何日かは抱いて寝た。どういう本だったか。それは単なる、教科書の問題の答えが全部書いてある「アンチョコ」でしかなかった。でも、高校のころまでは大事にしていたのだが、何度目かの引っ越しで紛れてしまった。いまでも、届いたときのあの本の「表紙」の匂いや手触りは、鮮かによみがえってくる。『海門』(1939)所収。(清水哲男) January 102003 小倉百人かたまつてゆく寒さ哉高山れおな掲句の下敷きには、江戸後期の俳人・井上士朗の「足軽のかたまつて行く寒さかな」がある。しんしんと冷え込んでいる町なかを、最下級武士の「足軽(あしがる)」たちがおのずと身を寄せ合うようにして、足早に通りすぎていく。それぞれ、足袋もはいていないのだろう。見ているだけで、厳しい寒さがひとしお身にしみる光景だ。対して、作者は足軽を「小倉百人」にメンバー・チェンジしてみた。『小倉百人一首』に登場する錚々たる作者の面々だ。男七十九人、女二十一人。僧侶もいるが、おおかたはやんごとなき王朝貴族だから、冬の身支度も完璧だ。一堂に会すれば、さぞや壮観だったと思われるが、作者は苦もなく百人を冬の町に放り出している。そこでさて、彼らはどんな行動に出るのだろうか。と見ていると、やはり寒さには勝てず、「かたまつて」歩きはじめたというのである。それでなくとも、日ごろは「オレが」「ワタシが」と自己主張が強くプライドの高い面々だけに、仕方なく身を寄せ合って歩く様子は可笑しみを誘う。寒気のなかでは、足軽も貴族もないのである。ところで、私の愛誦する歌の作者は、集団のどのあたりにいるのだろうか。そんなことも思われて、すっかり楽しくなってしまった。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男) January 112003 大崩れして面目のとんどかな土橋石楠花季 January 122003 うづくまる薬の下の寒さ哉内藤丈草前書に「はせを翁の病床に侍りて」とある。芭蕉臨終直前の枕頭で詠んだもので、去来によれば、芭蕉が今生の最後に「丈草出来たり」と賞賛した句だという。だが、正直に言って、私にはどこが「出来たり」なのかが、よくわからない。凡句というのでもないけれど、去来が「かゝる時は、かゝる情こそ動かめ。興を催し、景をさぐるいとまあらじとは、此時こそおもひ知りはべる」と書いていることからすると、異常時にあっての冷静さが評価されたのだろうか。こういう緊急のときには、日ごろの蓄積が自然に出てくるというわけだ。ところで、芥川龍之介の『枯野抄』は、この句に触発されて書かれたことになっている。読み返してみたら、句への直接の言及はないが、彼もまた「出来たり」とは思っていなかったようだ。それは、師匠の唇をうるおした後に、不思議に安らかな気持ちになった丈草の心の内を描いた部分に暗示されている。「丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩提樹の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払つて去つた如く、唇頭にかすかな笑(えみ)を浮べて、恭々しく、臨終の芭蕉に礼拝した。――」。すなわち、掲句はいまだ「芭蕉の人格的圧力の桎梏」下にあったときのものだと、芥川は言っている。むろん一つの解釈でしかないけれど、去来のように手放しで誉める気になっていないところが、いかにも芥川らしくて気に入った。ちなみに去来は、しょせんは「薮の中」だとしても、小心者として登場している。(清水哲男) January 132003 筆始浮き立つ半紙撫で押へ渡辺善夫季語は「筆始(ふではじめ・書初)」で新年。あっと思った。この感触、この手触り。思い出したのだ。そうだった。中学時代までは書初の宿題があり、正月休みには必ず書いたものだった。半紙を広げて緑色の下敷きの上に置くときに、ふわっと浮き上がるので、掲句の通りに「撫で押へ」てから書いた。小さい半紙ならば、上部を文鎮(ぶんちん)で押さえてやれば、すぐに下敷きに密着したが、大きいものになると、そうはいかない。あちこち「撫で押へ」ても、なかなか静まってくれなかったつけ。もう半世紀も前のことを、掲句のおかげで、かなりはっきりと思い出すことになった。中学二年のときは、天井近くから吊るすほどの大きな書初を書かされたので、とくにあのときのことを。何という文字を書いたのかは覚えていないけれど、そのときの部屋の様子だとか、まだ元気だった祖父や祖母のことなどが次々に思い出されて、いささかセンチメンタルな気分に浸ってしまった。半紙は非常な貴重品だったので、練習には新聞紙を何枚も使ったものだ。したがって、本番になるといやが上にも緊張の極となる。失敗は許されないから、慎重に何度も「撫で押へ」て、……。で、書き終えて、乾かしてからくるくると墨で凹凸のできた半紙を巻くときの感触までをも思い出したのだった。あんなに真剣に文字を書いたことは、以来、一度もない。地味ながら、書初の所作のディテールをしっかり捉えていて、良い句だと思う。「浮き立つ」の措辞も、正月気分にぴったりだ。『明日は土曜日』(2002)所収。(清水哲男) January 142003 ゆりかもめ消さうよ膝のラジカセを佐藤映二季語は「ゆりかもめ(都鳥)」で冬。文学上では、在原業平の「名にしおはばいざ言問はん都鳥わが思ふ人は在りやなしやと」で有名だ。今日も隅田川あたりでは、ギューイギューイと鳴き交わし乱舞していることだろう。作者は岸辺でそんな光景を前にしているのだが、最前から近くにいる若者の鳴らしている「ラジカセ」の音が気になってしかたがない。そこでこの一句となったわけだが、「消せよ」ではなく「消さうよ」と呼びかけているところに、作者の心根の優しさが滲み出ている。音楽を楽しんでいる君の気持ちもわかるけど、せっかくの「ゆりかもめ」じゃないか。しばし、自然のままに、あるがままに過ごそうじゃないか……。ヘッドホンで聴くウォークマンが登場する以前のラジカセ時代には、句のように、公園などでもあちこちで音楽が鳴っていた。音楽を持ち運べるようにした工夫は画期的なものであり、これによって開発された文化的状況には素晴らしいものがある。が、他方では、これまでにはなかった新しい迷惑状況が生み出されたことも事実だ。ただ、当時のラジカセ族の気持ちのなかには、自分さえ楽しめればよいのだというよりも、周囲の人にも素敵な音楽を聞かせてあげたいという心情もあったのではないか。振り返ってみて、なんとなくそうも思われる。そうした雰囲気が感じられたので、にべもなく「消せよ」とはならなかったとも言えるだろう。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男) January 152003 雪にとめて袖打はらふ駄賃かな西山宗因宗因は江戸前期の人で、元来は肥後八代の武家であったが、浪人して連歌師となり、のち俳諧に転じた。談林派の祖で、門下には西鶴もいた。現代の俳句から、まったくと言ってよいほどに影をひそめたのが、このような詠み方だろう。前書に「古歌なをしの発句にとてつかうまつりしに」とある。いわゆる「本歌取り」という手法で、意識的に先人の作の用語や語句などを取り入れて作る方法だ。掲句は、有名な藤原定家の「駒とめて袖打ち払ふ蔭もなし佐野の渡の雪の夕暮」を踏まえて作られている。宗因はこれを、旅の途中で激しい雪にあい、折りよく通りかかった馬子を「とめて」、「袖打はらふ」ほどのなけなしの銭で、高い「駄賃(だちん)」を支払ったと換骨奪胎した。定家の雅を俗に転じた機知と滑稽。「く〜だらねえっ」と、いまどきの俳人はソッポを向きそうだけれど、なかなかどうして、したたかで面白い句だ。遊びには違いないが、貴人定家の上品趣味をからかうと同時に、庶民の自嘲的哀感がよく出ているし、俗に生きなければ生きられない庶民の土性骨も感じられる。ところで、この定家の歌そのものが『万葉集』の「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野の渡に家もあらなくに」の本歌取りであることは、よく知られている。定家は万葉の俗を雅にひっくり返し、それをまた宗因がひっくり返してみせた。凡手のよくするところではあるまい。(清水哲男) January 162003 寒卵煙も見えず雲もなく知久芳子季語は「寒卵(かんたまご)」で冬。寒中の鶏卵は栄養価が高く、また保存が効くので珍重されてきた。が、いまどきの卵を「寒卵」と言われても、もはやピンとこなくなってしまった。割った具合からして、いつもと同じ感じがする。それはともかく、掲句の卵は見事な寒卵だ。黄身が平素のものよりも盛り上がり、全体に力がみなぎっている様子がうかがえる。まさに一点のくもりもなく、椀に浮いているのだ。それを大袈裟に「煙も見えず雲もなく」と言ったところに、面白い味が出た。このときに「煙も見えず雲もなく」とは、あまりにも見事な卵の様子に、思わず作者の口をついて出た鼻歌だろう。というのも、この中七下五は、日清戦争時の軍歌「勇敢なる水兵」の出だしの文句だからだ。佐々木信綱の作詞。この後に「風も起こらず波立たず/鏡のごとき黄海は/曇り初めたり時の間に」とつづく。八番まである長い歌で、黄海の海戦で傷つき死んでいった水兵を讚える内容である。内容の深刻さとは裏腹に、明るいメロディがついていて、おかげでずいぶんと流行したらしい。しかし、作者は昨日付の宗因句のように、パロディを意識してはいない。したがって、好戦や反戦とは無関係。卵を割ったとたんに、ふっと浮かんできた文句がこれだった。すなわち鼻歌と言った所以だが、歌も鼻歌にまでなればたいしたものである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男) January 172003 風花や貌あげて鳴くとりけもの長篠旅平季語は「風花(かざはな)」で冬。晴天にちらつく雪。誰が名づけたのか、美しいネーミングだ。盛んに使われるようになったのは、明治以降という。風花が来ると、人は「ああ」と言うように空を仰いで、しばらく見つめる。風花に「とりけもの」が反応するかどうかは別問題として、そういえば、彼らが「鳴く」ときは「貌(かお)あげて」いることに思いがいたった。でも、人は貌をあげても鳴かない。あるいは、泣かない。しかし、彼らと同じ動物としての人は、やはり同様に、声にこそ出さないけれど、貌をあげて鳴いている(泣いている)のではなかろうか。それが本来かもしれないと、すっと「とりけもの」にシンパシーを感じた一瞬だろうと読めた。このときに「とりけもの」の表記が「鳥獣」であれば、むしろ違和感を与えるところだが、平仮名にすることによって、気持ちが彼らに溶け込んでいる。外国語には翻訳できない日本語ならではの妙と言うべきか。ところで、句の解釈とは直接の関係はないが、この「けもの」という言葉を、私たちが日常的にまったくと言ってよいほど使わないのは、何故だろう。「とり」は使うし「さかな」も使う。「はな」や「くさ」や「き」も、頻繁に使う。何故「けもの」だけが別扱いというのか、まるで文語のようになってしまっているのか。とても気になる。『今はじめる人のための俳句歳時記』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男) January 182003 人間の眼もていどめる二羽や闘鶏図文挟夫佐恵季 January 192003 野山獄址寒しひと筋冬日射し岡部六弥太冬 January 202003 大寒の堆肥よく寝てゐることよ松井松花今日は「大寒(だいかん)」。一年中で、最も寒い日と言われる。大寒の句でよく知られているのは、虚子の「大寒の埃の如く人死ぬる」や三鬼の「大寒や転びて諸手つく悲しさ」あたりだろう。いずれも厳しい寒さを、心の寒さに転化している。引き比べて、掲句は心の暖かさにつなげているところがユニークだ。「堆肥(たいひ)」は、わら、落葉、塵芥、草などを積み、自然発酵させて作る肥料のこと。寒さのなかで、じわりじわりとみずからの熱の力で発酵している様子は、まさに「よく寝ていることよ」の措辞がふさわしく、作者の微笑が伝わってくる。一部の歳時記には「大寒」の異称に「寒がはり」があげられているが、これは寒さの状態が変化するということで、すなわち暖かい春へ向けて季節が動きはじめる頃という意味だろう。実際、この頃から、梅や椿、沈丁花なども咲きはじめる。寒さに強い花から咲いていき、春がそれこそじわりじわりと近づいてくる。そういうことを思うと、大寒の季語に託して心の寒さが多く詠みこまれるようになったのは、近代以降のことなのかもしれない。昔の人は、大寒に、まず「春遠からじ」を感じたのではないだろうか。一茶の『七番日記』に「大寒の大々とした月よかな」がある。情景としては寒いのだが、「大々(だいだい)とした月」に、掲句の作者に共通する心の暖かさが現れている。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男) January 212003 ざうざうと湯ざめしてをり路次咄久米三汀季語は「湯ざめ」で冬。銭湯の帰りの「路次(ろじ)」で、近所の知りあいの人に出会っての立ち話だ。湯ざめを気にしながらも、「咄(はなし)」はなかなか終わらない。こういうことは、日常茶飯事だったろう。目を引くのは「ざうざうと」である。「ぞくぞくと」の音便化と読む人もいるようだが、違うと思う。「ぞくぞくと」であれば、身の内からだんだん寒さが込み上げてくる状態だ。対して「ざうざうと」は、身の内からも何もない。文句無しの冷たい外気に触れて、全身がどんどんと冷え込んできている状態を指すと読める。言い換えれば、「ぞくぞくと」は人の実感にとどまり、「ざうざうと」は人をも含めた界隈全体に押し寄せている寒気を感じさせる。そのとき、路次を吹き抜けていた風の音からの発想だろうか。なお、「三汀」は小説家・久米正雄の俳号である。中学時代から河東碧梧桐門で頭角をあらわし、俳壇の麒麟児とうたわれた。小説家としては、いまで言う中間小説に才能を発揮したが、もはや文庫本にも収録されていないのではあるまいか。私が読んだのは、受験浪人時代にたまたま手にした『受験生の手記』、たった一冊だ。秀才の弟に受験でも恋でも遅れをとり、自殺に追い込まれるという悲しい物語だった。だから、受験シーズンになると、ふっと久米正雄の名を思い出すことがある。『返り花』(1943)所収。(清水哲男) January 222003 一人づつ減る夕寒を根木打菅 裸馬季語は「根木打(ねっきうち)」で冬。「むさしのエフエム」のスタジオには、俳句歳時記が置いてある。音楽をかけている間に、時々パラパラとめくって、任意のページを読む。今日もそんなふうにして読んでいて、「あつ」と声をあげそうになった。子供のころによくやった遊びに、地面に五寸釘を立てて倒しあうものがあった。大人になってから時々思い出し、友人にそんな遊びがあったかと聞くと、みな知らないと言う。知らないということは、やっぱり山陰もごくごく田舎ローカルの遊びだったのかと、いつしか誰にも尋ねなくなっていた。それが、偶然に開いたページに麗々しく載っているではありませんか。ローカルなんてものじゃない。季語になっているくらいだもの、昔は全国的によく知られた遊びだったのだ。カッと頭に血がのぼるほどに嬉しかった。放送で話したわけではないけれど、長年の胸のつかえがおりて、以後はまことに上機嫌で仕事ができた。「根木打」とは、どんな遊びだったのか。スタジオで読んだ平井照敏の説明を丸写しにしておく。「先をとがらせた木の棒が根木で、長さは三十センチから六十センチほど。これをやわらかい土に打ち込み、次の者が自分の根木を打ち込みながら、前の者の根木に打ち当てて倒してそれを分捕るのである。竹の棒、五寸釘を使うこともある。(中略)稲刈りのあとの田んぼや雪上などでする」。地方によって呼び名はいろいろなようだが、私たちは五寸釘を使ったので、単純に「釘倒し」と呼んでいた。まことにシンプルな遊びなのだが、熱中しましたね。まさにこの句にあるように、夕暮れの寒さにかじかみながら、一人減り二人減るなかで、打ち合ったものでした。なにしろ五寸釘ゆえ、夕暮れに打ち合わせるとパッパッと火花が散った……、その泣きたいような美しさ。掲句のセンチメンタリズムはよくある類のレベルにしかないけれど、この際、そんなことはどうでもよろしいという心持ちになっています。体験者は、おられますでしょうか。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男) January 232003 水仙を接写して口尖りゆく今井 聖季語は「水仙(すいせん)」で冬。「雪中花(せつちゅうか)」とも。活けてある水仙を撮影しているのではなく、戸外での花を「接写」しようとしているのだろう。風があるので、なかなかシャッター・チャンスが訪れない。風が途絶える瞬間をねらっている。三脚を使わない手持ちのカメラだとしたら、手ぶれにも気を使う。息をとめるようにして構えていると、だんだん「口」が尖(とが)ってくる。ふとそのことに気づいて、苦笑している句だ。最近の植物園などに出かけると、花にカメラを構えている人の増えたこと。定年退職後と思われる年齢の人が、圧倒的に多い。昔は絵を描いている人のほうが多かったが、近頃では完全に逆転してしまった。で、見ていると、たいていの人が「接写」に夢中になっているようだ。みなさんが掲句そっくりに、それぞれ口を尖らせていると思うと可笑しくもなるが、そんなふうに夢中になれるところが接写の醍醐味なのだろう。ただ、いささか気になるのは、昨今の花の写真というと、接写による大写しの写真が氾濫していることだ。なんだか、花の種袋を見せられているような気がしてならない。一概によろしくないとは言わないけれど、もっと距離を置いて花を楽しむ姿勢があってもよいのではなかろうか。間もなく、梅の季節がやってくる。きっと、テレビでは初咲きの花を大写しにすることだろう。私は、梅や桜の一輪を解剖して見るよりは、むしろぼおっとした遠景として眺めるほうが好きである。「俳句研究」(2002年3月号)所載。(清水哲男) January 242003 水いろの帯ながながと雪女郎北園克衛季語は「雪女郎(ゆきじょろう)・雪女」で冬。しどけなく「帯」を「ながながと」垂らした「雪女郎」は、どこか能などに登場する狂女を思わせる。しかも、その帯は「水色」だ。降り積もった雪に半ば溶け込んでいる帯をぞろりと引いて、この世への怨念をぶつぶつと呟いている。そんな様子を想像させられるが、この句をコワいと思うかどうかは、読者と雪とのかかわりの深浅によるだろう。南国育ちの人であれば、おそらくそんなにコワいとは感じないのではないか。もとより、雪女郎は人間の作り出した幻想でしかない。しかし、単なるお話ではない。すべての幻想には根拠がある。たとえ個的なそれであっても、必然性がある。深い雪に埋もれたままの長い冬。そこでうずくまるように暮らしているなかで、自然にわいてくる想念は、「ああ、もうイヤだ」というようなことではないはずだ。むしろ、圧倒的な自然の力への畏怖ないしは畏敬の念であり、それが煮詰まったところで形象化されたのが、たとえば雪女郎だったのではないか。西洋流に言えば、雪の精だ。鬼や妖怪の類も同様で、平たく言えば、自然の力をわかりやすく目に見える形に翻訳したわけだ。ひるがえって、昨今の文明社会には雪女郎も鬼も妖怪も登場してこない。いなくなったのではなく、自然との関係が浅くなった分、我々が彼らを見失ってしまったのだと思う。モダニズム詩人の北園克衛にして、この句あり。いろいろなことを考えさせられた。『村』(1980)所収。(清水哲男) January 252003 ひとかどの女の如し山眠る守屋明俊季語は「山眠る」で冬。こういう句を読むと、俳句って愉快だなあと思う。俳句雑誌の句をぱらぱら拾い読みしていて、たいていは失礼ながらすうっと通りすぎてしまうのだが、ときどき急ブレーキをかけることがある。掲句も、そうだった。むろん、引っ掛かるものがあったからだ。つまり「ひとかどの女」という表現に、立ち止まらされてしまったのである。たいてい「ひとかどの」とくれば「男」に決まっているだろうが。えっ、なぜ「女」なんだと、眼をこすった。こうなれば、もう作者の勝ちである。負けた私(笑)は、しょうことなく、何度か繰り返し読むことになった。で、いろいろと眠る山と女を関係づける普遍性必然性は那辺にありや、などと思いをめぐらせてみることになった。普遍性必然性については、すぐに納得できたような気がする。「ひとかどの男」であれば、どんなことがあろうとも、眠ったりはしないだろう。ところが「女」は、そこらへんで「男」とは違いがありそうだ。図太いというのとはだいぶニュアンスに差があるのだけれど、神経のありどころが「男」とは違っているところがあるのは確かだ。だから、句に「男」とあったなら、面白くも何ともない。ただ、眠る山がだらしなく写るばかりだからある。そこへいくと、女の寝姿に見立てた作者の感性はなかなかのもの。それもなまじな女ではなく「ひとかどの女」なのだから、素晴らしい。と言いつつも、はて「ひとかどの女」って、どんな女なのかは、私にはまったくわからない。そこで邪推に近い言い方になるが、実は作者にもよくわかっていないのだと思った。でも、それでいいのだ。この句に滲んでいるのは、作者の女性観の一端だろう。それが、冬の山を句にしようとしているうちに、ぽろりと口をついて出てきちゃったということだろう。俳句なればこそ、こういうことが起きるのである。「俳句」(2003年2月号)所載。(清水哲男) January 262003 外はみぞれ、何を笑ふやレニン像太宰 治大 January 272003 冬薔薇に開かぬ力ありしなり青柳志解樹いまでこそ「冬薔薇(ふゆばら・ふゆそうび)」も一般的になったが、栽培の歴史を読むと、冬に薔薇を咲かせるのは大変だったらしい。気が遠くなるほどの品種改良が重ねられ、四季咲きが定着したのは戦後になってからだ。句の冬薔薇は栽培によるものか天然のものかはわからないが、いずれにしても、ついに咲かなかった薔薇である。それを作者は残念と言わずに、咲かなかったのは「薔薇に開かぬ力」があったからだと、肯定している。いわば薔薇の身になり代わって、咲かない理由を述べているのだ。花は咲くもの。なんとなく私たちはそう思っているが、そんな常識は非常識だと、作者は言おうとしているのだと思う。開く力があるのであれば、植物には本源的に「開かぬ力」というものもあるのだ。こんな寒空に、無理やりに咲かされてたまるものか。擬人化すれば、そんな意志が薔薇にはあり、かつては「ありしなり」と、昔は咲かぬのも常識のうちだった。それが、どうだろう。最近の冬薔薇はみな、ぽわぽわと能天気に咲いてしまう。しまりというものがない。あの凛とした「開かぬ力」は、どこへいったのか。だんだん句が、薔薇のことではなく、我ら人間のことを詠んだふうに見えてくるから面白い。余談になるが、中世ヨーロッパでは、枯れた薔薇は壺に入れて厳重に保管されたという。その壺を「薔薇の壺」と称したが、転化して「秘密の奥義」を意味するようになったというから、如何に薔薇が珍重されていたかがうかがわれる。L・ギヨーとP・ジバシエの書いた『花の歴史』(串田孫一訳・文庫クセジュ)のなかに、十五世紀のロンドの一節が紹介されている。「あなたの唇の閉じられた扉を/賢明に守ることを考えなさい。/バラの壺をみつける言葉を/外へ漏らさないように」。「開かぬ力」が、ここでも称揚されている。『松は松』(1992)所収。(清水哲男) January 282003 駅出口寒月喧嘩地区で消え長谷部さかなこの句を読んで、すぐに微笑を浮かべたあなたは、さすがです。言葉に、とても敏感な方です。会社帰りだろうか。駅の出口で空を仰ぐと、見事な寒月がかかっていた。歩きはじめて、もう一度みておこうと振り仰いだが、そこは通称「喧嘩地区」と言われる雑然とした飲み屋街。ガード下なのか、あるいは雑居ビルが立て込んでいるために、もう見えなかった。消えていた。ちょっと残念。よくあることですね。私は、新橋の烏森口あたりをイメージしました。ところで、この句ににやりとしなかった方は、もう一度、句をよくにらんでください。にらんでいるうちに、するするっと句がほどけてくるはずです。そうです。掲句はさかさまから読んでも、同じように読める仕掛けになっているのでした。いわゆる回文形式ですね。作者はよほどの凝り性らしく、この一句を含めて「いろは歌留多」を作ってしまいました。つまり、句の出だしの仮名を「い、ろ、は、……」と変えていき、最後の「京」まで全部で四十八句を、いずれも回文俳句に仕立て上げたというわけです。すべてが有季定型句ですから、ずいぶんと時間がかかったことでしょう。大変な人もいたものです。遊びといえば、遊び。でも、言葉を感情や感動から放つのではなく、がんじがらめの形式に合わせて紡ぎだすことで、きっと何かが見えてくるような気がします。試してみようかな。『俳句極意は?〜回文俳句いろは歌留多』(2003・北辰メディア)所収。(清水哲男) January 292003 雪兎わが家に娘なかりけり岩城久治季 January 302003 美しき鳥来といへど障子内原 石鼎季語は「障子(しょうじ)」で冬。どうして、障子が冬なのだろうか。第一義的には、防寒のために発明された建具ということからのようだ。さて、俳句に多少とも詳しい人ならば、石鼎のこの句を採り上げるのだったら、なぜ、あの句を採り上げないのかと、不審に思われるかもしれない。あの句とは、この句のことだ。「雪に来て美事な鳥のだまり居る」。おそらくは、どんな歳時記にでも載っているであろう、よく知られた句である。「美事(みごと)な」という形容が、それこそ美事。嫌いな句ではないけれど、しかし、この句はどこか胡散臭い感じがする。石鼎の句集を持っていないので、掲句とこの句とが同じ時期に詠まれたものかどうかは知らない。知らないだけに、掲句を知ってしまうと、美事句の胡散臭さが、ますます募ってくる。はっきり言えば、石鼎は実は「美事な鳥」を見ていないのではないか。頭の中でこね上げた句ではないのか。そんな疑心が、掲句によって引きだされてくるのだ。句を頭でこね上げたっていっこうに構わないとは思うけれど、いかにも「写生句」ですよと匂わせているところが、その企みが、鼻につく。事実は、正真正銘の写生句なのかもしれないし、だとしたら私は失礼千万なことを言っていることになるのだが、そうだとしても、掲句を詠んだ以上は、美事句の価値は減殺されざるを得ないだろう。どちらかを、作者は捨てるべきだったと思う。私としては、掲句の無精な人間臭さのほうが好きだ。「美しき鳥」が来てますよと家人に言われても、寒さをこらえてまで障子を開けることをしなかった石鼎に、一票を投じておきたい。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男) January 312003 寝て起きて鰤売る声を淋しさの果椎本才麿季語は「鰤(ぶり)」で冬。「およそ冬より春に至るまで、これを賞す。夏時たまたまこれあるといへども、用ふるに足らず」(『本朝食鑑』)。冬が、いちばん美味いのである。ことに、寒鰤が。作者は元禄期の江戸の人。「寝て起きて」は、一見子供の作文みたいな表現にも写るが、これがないと句が成立しない。波風のない平凡な暮しを言っているわけで、寝起きの「淋しさ」に何の理由もないことを強調する布石として置いてある。突然、いわれのない淋しさに落ち込んでしまった心に、表から「鰤売る声」が聞こえてきた。鰤は出世魚と言われるくらいだから、振り売り(行商人)の声も、さぞや威勢がよかっただろう。その威勢のよさに、なおさら淋しさが増幅されたというのである。「淋しさの果(はて)」という字余りが秀逸だ。寒々とした部屋にあって、理由の無い淋しさのどん底で、なすすべもなくおのれの感情を噛みしめている作者の姿が彷彿とする。程度の差はあれ、いくら時代が変わっても、こういうことは誰にでも起きるだろう。その曰く言い難い心持ちを、見事に具体的に言ってのけた秀句だ。書いているうちに、こちらもなんとなくいわれなき淋しさに誘われそうである。こういう淋しさは、とても伝染しやすいのかもしれない。(清水哲男)
|