仕事納め。しばらくパソコンから離れる方も多いでしょう。よいお年をお迎えください。




2002ソスN12ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 27122002

 一舟もなくて沖まで年の暮

                           辻田克巳

はるかす海原には、「一舟(いっしゅう)」の影もない。普段の日だと、どこかに必ず漁をする舟などが浮かんでいるのだが、今日は認めることができない。みな、年内の労働を終えたのだ。いよいよ、今年も暮れていくという感慨がわいてくる。句の要諦は、むろん「沖まで」の措辞にある。「年の暮」の季語は時間を含んでいるので、四次元の世界だ。その時間性を遠い「沖まで」と、三次元化(すなわち、視覚化)してみせたところが素晴らしい。つまり、意図的に時間を景色に置き換えている。作者は、見えないはずの「年の暮」の時間性を「沖まで」と三次元的に表現することにより、読者にくっきりと見せているのだ。ここで、読者は作者とともに遥かな沖を遠望して、束の間、ふっと時間を忘れてしまう。そして、またふっと我に帰ったところで、あらためて「年の暮」という時間を噛みしめることになる。へ理屈をこねれば、時間を忘れている束の間もまた時間なのだが、この束の間の時間性よりも、句では束の間の無時間性、空白性を訴える力のほうがより強いと思う。時間を束の間忘れたからこそ、あらためて「年の暮」の時間が身にしみて感じられるのである。「俳句界」(2003年1月号)所載。(清水哲男)


December 26122002

 街騒も数へ日らしくなつて来し

                           境 雅秋

語は「数へ日」で冬。年内も押し詰まって、残った日を指折り数えられるようになること。「街騒」は造語だろう。「がいそう」とでも読むしかないが、句面を見る目には、それこそちと騒がしくも重たい(笑)。でも、言いたいことはよく出ている。つい昨日まで商店街に流れていたクリスマス音楽がぱたりと止まると、急に人声や足音、さらには車や電車の音などが生々しく聞こえるようになる。それも、クリスマス商戦以前とは違い、だいぶテンポやリズムが慌ただしい。そういえば、作者自身もせかせかと歩いていることに気がついているのだ。「ああ、今年もそろそろお終いか」という感慨を、街の音に絞って表現したところに妙味がある。他に「数へ日や二人の音を一人づつ」(土橋たかを)などもあり、年の暮れの慌ただしさを「音」に感じている人は、けっこうおられるようだ。除夜の鐘の「音」まで、「数へ」てみれば、あと五日しかないのですね。私は、今日も仕事で街に出かけます。出かけたら、吉祥寺の「街騒」のなかで、おそらくこの句を思い出すことになるのでしょう。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)

[「街騒」の読み方 ]数人の読者から、「潮騒」のように「まちさい」あるいは「まちざい」と読むのではないかというご指摘を受けました。角川書店編の「吟行・句会」必携の374頁に「まちざい」「まちざゐ」と載っているそうです。知りませんでした。ありがとうございました。


December 25122002

 橇がゆき満天の星幌にする

                           橋本多佳子

語は「橇(そり)」で冬。途方もなくスケールが大きく、かつ見事に美しい情景だ。ロマンチックとは、こういうことさ。と、読んだこちらのほうが力みかえりたくなってしまう。昭和ロマンともてはやされた、戦前のシルエット調の挿し絵やカットの類が、作者の頭にはあったのかもしれない。見渡すかぎりの雪原だ。そのなかを「満天の星」を「幌(ほろ)にして」行く小さな黒い橇は、ほとんど進んでいないかのように見える。遠望している作者の耳には、おそらく鈴の音も聞こえていないだろう。まさに、息をのむように美しいシルエットの世界だ。実景というよりも、幻想に近い。いや、実景を幻想にまで引き上げた句と言うべきか。素敵だ。私が育った山陰の村でも、雪が降れば橇の出番があった。しかし、それらはみな木材や炭俵などを運ぶためのもので、どう見てもロマンチックとはほど遠かった。むろん、幌無しだ。馬が引き、牛が引き、そして人も引きという具合。学校帰りに、たまたま通りかかった橇に、よく無断で飛び乗っては叱られたものだ。あれ以来、一度も橇に乗ったことはない。掲句の橇にも実際には幌がついていないのだから、案外、そんな橇だったとも考えられる。だとすれば、より親近感がわいてくる。そして、表現力のマジックを思う。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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