年末年始は、ここの看板の塗り替えで忙しい。三が日も全部替えよう。ヤケクソだい。




2002ソスN12ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 26122002

 街騒も数へ日らしくなつて来し

                           境 雅秋

語は「数へ日」で冬。年内も押し詰まって、残った日を指折り数えられるようになること。「街騒」は造語だろう。「がいそう」とでも読むしかないが、句面を見る目には、それこそちと騒がしくも重たい(笑)。でも、言いたいことはよく出ている。つい昨日まで商店街に流れていたクリスマス音楽がぱたりと止まると、急に人声や足音、さらには車や電車の音などが生々しく聞こえるようになる。それも、クリスマス商戦以前とは違い、だいぶテンポやリズムが慌ただしい。そういえば、作者自身もせかせかと歩いていることに気がついているのだ。「ああ、今年もそろそろお終いか」という感慨を、街の音に絞って表現したところに妙味がある。他に「数へ日や二人の音を一人づつ」(土橋たかを)などもあり、年の暮れの慌ただしさを「音」に感じている人は、けっこうおられるようだ。除夜の鐘の「音」まで、「数へ」てみれば、あと五日しかないのですね。私は、今日も仕事で街に出かけます。出かけたら、吉祥寺の「街騒」のなかで、おそらくこの句を思い出すことになるのでしょう。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)

[「街騒」の読み方 ]数人の読者から、「潮騒」のように「まちさい」あるいは「まちざい」と読むのではないかというご指摘を受けました。角川書店編の「吟行・句会」必携の374頁に「まちざい」「まちざゐ」と載っているそうです。知りませんでした。ありがとうございました。


December 25122002

 橇がゆき満天の星幌にする

                           橋本多佳子

語は「橇(そり)」で冬。途方もなくスケールが大きく、かつ見事に美しい情景だ。ロマンチックとは、こういうことさ。と、読んだこちらのほうが力みかえりたくなってしまう。昭和ロマンともてはやされた、戦前のシルエット調の挿し絵やカットの類が、作者の頭にはあったのかもしれない。見渡すかぎりの雪原だ。そのなかを「満天の星」を「幌(ほろ)にして」行く小さな黒い橇は、ほとんど進んでいないかのように見える。遠望している作者の耳には、おそらく鈴の音も聞こえていないだろう。まさに、息をのむように美しいシルエットの世界だ。実景というよりも、幻想に近い。いや、実景を幻想にまで引き上げた句と言うべきか。素敵だ。私が育った山陰の村でも、雪が降れば橇の出番があった。しかし、それらはみな木材や炭俵などを運ぶためのもので、どう見てもロマンチックとはほど遠かった。むろん、幌無しだ。馬が引き、牛が引き、そして人も引きという具合。学校帰りに、たまたま通りかかった橇に、よく無断で飛び乗っては叱られたものだ。あれ以来、一度も橇に乗ったことはない。掲句の橇にも実際には幌がついていないのだから、案外、そんな橇だったとも考えられる。だとすれば、より親近感がわいてくる。そして、表現力のマジックを思う。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 24122002

 屋台とは聖夜に背向け酔ふところ

                           佐野まもる

っはっは。狷介というのか、世を拗ねているというのか。私にも、こんなふうな若き日がありました。クリスチャンでもないくせに、浮かれている人々が憎らしくもあり、嫉ましくもあり……。屋台のおやじさん相手に、ひとしきり不満をぶちまけて、安酒をあおったものです。文字通りに「聖夜に背向け」酔っていました。でも、当時の本音を叩けば、誰もいっしょに過ごす人がいないので、ただ心寂しかっただけのようでもあります。といって、今でもべつに進んで祝う気持ちはありませんが、楽しげな人々を見て、腹立たしく思うこともなくなりました。クリスマスであれ、何であれ、人は楽しめるときに楽しんでおかないと……、という心境に変化しています。これが、きっとトシのせいというものなのでしょう。その点、我が若き日に比べると、いまの若い人たちはとても楽しみ上手に見え、羨ましいかぎりです。さて、どうでしょうかね。そうはいっても、今夜も広い日本のどこかには、句のように屋台に坐って肩そびやかしている若者が、きっといるのでしょうね。それもまた青春、よしとしましょうや。では、メリー・クリスマス。大いにお楽しみください。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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