太平洋戦争開戦の日。三歳の私はむろん覚えていない。「戰よあるな」の声はいずこに。




2002ソスN12ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 08122002

 旅にみる灯ぬくき冬よ戰あるな

                           飴山 實

後十年目に詠まれた句。旅の途次での夜景だ。車窓からの眺めかもしれない。見渡すと、あちこちに人家の「灯」が点々とともっている。外気はあくまでも冷たいが、それらの「灯」はとても「ぬく」く感じられる。この「ぬくき灯」の点在こそが、平和というものなのだ。二度と「戰」などあってはならない。と、理屈ではわかっても、この句を実感として受け止められる人は、もう国民の半分もいなくなってしまった。そう思うと、複雑な気持ちになる。戦時中の灯火管制と頻繁に起きた停電とで、往時は町中でも真っ暗だった。敗戦後に、人々がもっとも解放感を味わったことの一つは、まぎれもなく夜の「灯火」を自由に扱えるようになったことである。多くの人が、その喜びを話したり書いたりしている。掲句もまた、その喜びの余韻のなかで詠まれているわけで、だからこそ「戰あるな」が痛切な説得力を持つ。ここで思い出されるのは、かつての湾岸戦争で、イラクを一番手で空爆したアメリカ兵士のコメントだ。「バグダッドの街は、まるでクリスマス・ツリーのように輝いていた……」。そのときに、かりに彼にこの句が読めたとしても、真意はついに理解できないだろうなと思った。現代の戦争は「灯」を消そうが消すまいが関係はないのだけれど、そういうことではなくて、彼には「灯」から人間の生活を思い描く能力が欠如している。素直にキレいだと言っただけであって、正直は認めるが、この正直の浅さがとても気になった。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 07122002

 母にのこる月日とならむ日記買ふ

                           古賀まり子

記帳を買うときには、誰でも来年に対する思いがちらと頭をかすめる。どんな年になるのだろう……。そんな思いがあるので、素直に「日記買ふ」が季語として受け入れられてきたのだろう。私が市販の日記帳を買っていたのは十代のときまでだったから、頭をよぎったのは進級だとか受験だとかと、学校にからんだことが多かったような記憶がある。まことに暢気にして、かつ世間が狭かった。掲句からは、作者の母親が重い病気であることが知れる。この新しい日記のページのどこかで、ついに不吉なことが起きるかもしれない。考えたくもないけれど、現実をうべなえば「母にのこる月日とならむ」とつぶやかざるを得ないのである。作者自身が若年のころから病弱で、母一人子一人の生活だったと、何かで読んだ記憶がある。たしか「死に急ぐな」と、母に叱咤された句もあったはずだ。それだけに、なおさら母親のことが我が身にのしかかってくる。年の瀬。はなやかな日記帳やカレンダーの売り場で、どれを買おうかと選っている人の姿をよく見かける。胸中には、どんな思いが秘められているのだろうか。このような句を知ってしまうと、ふっとそういう人たちの顔を見たくなったりする。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 06122002

 土は土に隠れて深し冬日向

                           三橋敏雄

たり前のことを言うようだが、「土(つち)」には深さがある。だが、川や海の深さのようには、あるいは土の上に積もる雪の深さのようには、土のそれを、日ごろは気にも止めずに過ごしている。また、しばしば詩人は空の深さを歌ってきたけれど、土については冷淡なようだ。このことは、おそらく深さの様相が可視的か否かに関連しているのだろう。「土は土に隠れて」いるので、深さを見ることができない。見ることができない対象には、なかなか想像力も働かない。ちょっとした穴を掘れるのも、大根を引っこ抜けるのも、むろん土に深さがあるからだ。なのに、そうしたときにでも、あらためて土の深さを観念的にも感じることがないのは、面白いといえば面白い。ところが、掲句を読めば、ほとんどの人が素直に句意にはうなずけるだろう。土の深さを実感するだろう。極端には「凍土(とうど)」というくらいで、とりわけて冬の土は冷たい地表のみが際立つ。霜柱の立つような表面だけを、私たちはフラットに意識する。が、たまたま心に余裕があって「日向」にたたずみ、明るい土を眺めることができるとすれば、表面的にも柔らかく見える土の可視的な表情から、自然に深さ(言い換えれば「豊饒」)を感じ取ることになるのだと思う。昨日の東京は格別に暖かく、日向にあって、こんなふうに実感した人も少なくないだろう。私も、その一人だったので、この句をみなさんにお裾分けしておきたくなったという次第だ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣)所載。(清水哲男)




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