余白忘年句会。会場は井の頭自然文化園の「童心居」。野口雨情の書斎だった建物である。




2002ソスN12ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 07122002

 母にのこる月日とならむ日記買ふ

                           古賀まり子

記帳を買うときには、誰でも来年に対する思いがちらと頭をかすめる。どんな年になるのだろう……。そんな思いがあるので、素直に「日記買ふ」が季語として受け入れられてきたのだろう。私が市販の日記帳を買っていたのは十代のときまでだったから、頭をよぎったのは進級だとか受験だとかと、学校にからんだことが多かったような記憶がある。まことに暢気にして、かつ世間が狭かった。掲句からは、作者の母親が重い病気であることが知れる。この新しい日記のページのどこかで、ついに不吉なことが起きるかもしれない。考えたくもないけれど、現実をうべなえば「母にのこる月日とならむ」とつぶやかざるを得ないのである。作者自身が若年のころから病弱で、母一人子一人の生活だったと、何かで読んだ記憶がある。たしか「死に急ぐな」と、母に叱咤された句もあったはずだ。それだけに、なおさら母親のことが我が身にのしかかってくる。年の瀬。はなやかな日記帳やカレンダーの売り場で、どれを買おうかと選っている人の姿をよく見かける。胸中には、どんな思いが秘められているのだろうか。このような句を知ってしまうと、ふっとそういう人たちの顔を見たくなったりする。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 06122002

 土は土に隠れて深し冬日向

                           三橋敏雄

たり前のことを言うようだが、「土(つち)」には深さがある。だが、川や海の深さのようには、あるいは土の上に積もる雪の深さのようには、土のそれを、日ごろは気にも止めずに過ごしている。また、しばしば詩人は空の深さを歌ってきたけれど、土については冷淡なようだ。このことは、おそらく深さの様相が可視的か否かに関連しているのだろう。「土は土に隠れて」いるので、深さを見ることができない。見ることができない対象には、なかなか想像力も働かない。ちょっとした穴を掘れるのも、大根を引っこ抜けるのも、むろん土に深さがあるからだ。なのに、そうしたときにでも、あらためて土の深さを観念的にも感じることがないのは、面白いといえば面白い。ところが、掲句を読めば、ほとんどの人が素直に句意にはうなずけるだろう。土の深さを実感するだろう。極端には「凍土(とうど)」というくらいで、とりわけて冬の土は冷たい地表のみが際立つ。霜柱の立つような表面だけを、私たちはフラットに意識する。が、たまたま心に余裕があって「日向」にたたずみ、明るい土を眺めることができるとすれば、表面的にも柔らかく見える土の可視的な表情から、自然に深さ(言い換えれば「豊饒」)を感じ取ることになるのだと思う。昨日の東京は格別に暖かく、日向にあって、こんなふうに実感した人も少なくないだろう。私も、その一人だったので、この句をみなさんにお裾分けしておきたくなったという次第だ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣)所載。(清水哲男)


December 05122002

 マスクして人の怒りのおもしろき

                           上野さち子

語は「マスク」。冬に分類したのは、風邪が流行る季節だからだろう。昨今では、スギ花粉症に悩まされる人がよくかけているので、瞬間、別の季節を連想した読者もおられるかもしれない。句は、大きなマスクをした人が、盛んに怒っている図だ。通りすがりに見かけて、ちょっと足が止まった。その人は大声で何かを言っているのだが、マスクに声がこもってしまって、明瞭には聞き取れない。口も鼻も覆われているし、わずかに目の光りだけが怒りの形相を伝えてくる。まことに恐ろしげな目つきで、しかし、言葉はモゴモゴだ。笑っては失礼かと思うが、作者は思わず吹きだしそうになってしまった。それを「おもしろき」と単純素朴に押さえているところが、それこそ実におもしろい。何が原因で怒っているのかは知らねども、たしかに第三者として見ていると、句のとおりに「人の怒り」に笑いを誘われることがある。そして、そんなに、こっちが笑いたくなるほど逆上することもあるまいにとも思う。むろん、これは第三者の心の余裕が思わせることなのだが……。といって、句はマスクの人を揶揄しているのではない。むしろ、つくづく人間とは「おもしろき」生き物よと感心しているのである。『今はじめる人のための俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)




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