November 252002
釣具屋を畳むにぎわい冬鴎五味 靖そんなに大きな店ではなくても、いざ「畳む」となれば大変だろう。店主としてはひっそりと店じまいにしたいところだろうが、何人かの手伝いも来ていて、それなりににぎやかになっている。大声や笑い声も聞こえてくる。店を閉める主人の感慨もへちまもどこへやら、こういうときの現場はむしろ活気に満ちた「にぎわい」を見せるものだ。一方では、港か河口に近い場所なので、そこここには鴎(かもめ)たちがうるさいくらいに、群れをなして飛び回っている。まるで、映画の一場面のような光景……。そして、この二つの「にぎわい」から浮かび上がってくるものは、表面的な「にぎわい」の奥底に沈んでいる寂寥感だ。一つの小さな歴史が閉じられるときの寂しさを、二つの「にぎわい」の中にとらえた作者の目は鋭くも的確である。それにしても「畳む」という言葉は面白い。元来は「折り返して重ねる」、すなわち「きちんと整理する」に近い意だろうが、句のように「閉じて引き払う」の意味で使ったり、あるいは「胸に畳んでおく」などと内面的な意味で機能させたりもする。子供のころに、時代劇映画で「畳んじまえっ」という言葉を知ったときには驚いた。人の命を「畳む」とは乱暴な話だが、直裁的な「殺っちまえ」よりも、殺人者の逡巡が「畳む」と言わせているのかなと思ったのは、もちろん大人になってからのことである。『武蔵』(2001・私家版)所収。(清水哲男) November 242002 つはぶきや二階の窓に鉄格子森 慎一季 November 232002 雪吊を見おろし山の木が立てり大串 章季語は「雪吊(ゆきつり)」で冬。やがて来る雪の重みで、庭木の枝が折れないようにする冬支度の一つ。金沢兼六園の雪吊は、冬の風物詩としても有名だ。そんな雪吊の様子を、周辺の「山の木」が「見おろし」ている。山の木に心があれば、過保護に甘んじている庭の木を冷笑するであろうか。……などと、つい思ったりするのが人間の哀れなところで、何でもかでも人間世界に移し替えて読んでしまうのは悪い癖だ。作者は、確かに「見おろし」と山の木を擬人化してはいる。が、これを「見くだし」などと読まれないように、意図的にそっけなく「立てり」と押さえて、ただ邪心なく淡々と立っている姿を強調している。「立てり」に違う言葉を配すると、にわかに句が生臭くなる。さて、この句の最も魅力的なところは、雪吊一事をレポートするに際しての視野の案配である。目の前の事象を等身大に見据えつつ、すっとカメラを引いたような視野の広げ方が面白い。あくまでも、雪吊は作者の目の前にある。もしかすると、山はよく見えていないのかもしれない。その眼前の光景を、あっという間に点景に変化させてしまっている。カメラでこの広い視野を得るには、ちょっとしたテクニックが必要だ。が、人間にはそれがいらない。苦もなく、頭の中で調節が可能である。地味な句柄に見えるが、なかなかどうして、仕掛けはむしろ華麗と言うべきではなかろうか。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)
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