オープンリールの録音テープが何本かある。20年も前のものだから劣化してるだろうな。




2002ソスN11ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 18112002

 さやうなら笑窪荻窪とろゝそば

                           摂津幸彦

語は「とろゝ(とろろ)」で秋だが、冬にも通用するだろう。物の本によれば、正月に食べる風習のある土地もあるそうだから、「新年」にも。ま、しかし、作者はさして季節を気にしている様子はない。「荻窪(おぎくぼ)」は東京の地名。「さやうなら」と別れの句ではあるけれど、明るい句だ。「さやうなら」と「とろゝそば」の間の中七によっては、陰々滅々たる雰囲気になるところを、さらりと「笑窪(えくぼ)荻窪」なる言葉遊びを配しているからである。つまり作者は、さらりとした別れの情感を詠みたかったということだ。たとえば、学生がアパートを引き払うときのような心持ちを……。このときに「笑窪荻窪」の中七は言葉遊びにしても、単なる思いつき以上のリアリティがある。ここが摂津流、余人にはなかなか真似のできないところだ。笑窪は誰かのそれということではなくて、作者の知る荻窪の人たちみんなの優しい表情を象徴した言葉だろう。行きつけの蕎麦屋で最後の「とろゝそば」を食べながら、むろん一抹の寂しさを覚えながらも、胸中で「さやうなら」と呟く作者の姿がほほえましい。元スパイダーズの井上順が歌った「お世話になりました」の世界に共通する暖かさが、掲句にはある。蕎麦屋のおじさんも「じゃあ、がんばってな」と、きっとさらりと明るい声をかけたにちがいない。いいな、さらりとした「さやうなら」は。『陸々集』(1992)所収。(清水哲男)


November 17112002

 鶫焼しんじつ骨をしやぶるのみ

                           泉田秋硯

の句で鮮烈なのは「しやぶる」という行為だ。最近の日本人はまず、しゃぶることをしなくなったと思う。骨付きの肉をしゃぶる人などは、小さな子供を含めてもいなくなったのではなかろうか。私自身も、いつしかしゃぶることをしなくなっている。放送の仕事のために、よく喉飴は舐めるけれど、幼かったときのようにしゃぶったりはしない。そういう構えで食物を口に入れたのは、二十代も前半くらいまでだった。あのころは句のように、なんでも「しんじつ」しゃぶるか、しゃぶりたいのに見栄を張って我慢したかの、どちらかだった。いまどき「鶫焼(つぐみやき)」と言われると、なんだか高級料理みたいに思えるかもしれないが、なんのことはない、ごく普通の屋台にあった焼鳥である。それを「しんじつ」しゃぶっていたのは、たいがい安サラリーマンか学生だった。「つけ焼きにしているのだが何しろ肉は殆どない。焼鳥と大きな声で注文したものの、『これ何じゃい』という代物である。骨をしゃぶって『たれ』の味を舌で味わうだけのものであった。昔は日本もそれほど貧しかった」と、作者は近著(自句自解シリーズ『泉田秋硯集』牧羊新社)で書いている。よく、わかる。ここに掲句を持ちだしたのは、かといって、いわゆる飽食の時代を非難したりするつもりからではない。素朴に、「しやぶる」ことを忘れてしまった人間の未来のありように興味と関心を抱いたからだ。「しんじつ」、感性や思考に影響が出てくるだろう。いや、もう出始めているのかもしれない。季語は「鶫焼」=「焼鳥」なので、冬の「焼鳥」に分類しておく。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


November 16112002

 蘭の香やむかし洋間と呼びし部屋

                           片山由美子

前に建てられた母方の実家に「洋間」があった。カーペットが敷かれ、シャンデリアが吊るされ、ソファが置かれ、ピアノと電蓄とがあった。大きなガラス窓が、障子に慣れた目には珍しかった。掛けられていた絵は、むろん「洋画」である。ただ、あまり使われていなかったようで、なんだかいつもヒンヤリとしていた記憶がある。ところで、作者の家には、まだこうした「むかし」ながらの洋間があるのだろう。他の部屋は和室だったわけだが、おそらく今ではそれらをリフォームして、みな洋式の部屋にして暮らしている。つまり、すべての部屋が洋間になってしまったわけで、とくに一室だけを「洋間」と区別して呼ぶことがなくなって久しいのだ。そんな部屋に、たまたま蘭を飾った。そしてその芳香に包まれた途端に、思い出されたのである。「むかし洋間と呼びし部屋」には、この「香」がよく漂っていたことが……。「蘭の香」は、同時に洋間そのものの香りでもあり、他の部屋にはない独特な香りだった。連れて、当時そのままの部屋のたたずまいと、往時そのままのあれこれのことを思い出し、しばし作者は懐旧の情に浸っている。香りが、思いがけない過去へと作者を誘ってくれたのだ。さて、句の季語は「蘭」であるが、歳時記によって季節の分類は異っている。夏によく咲くことから夏季とするものがあり、秋の七草のフジバカマを蘭と言ったことから秋季とするものなど、マチマチだ。しかし、現在では冬でも普通に蘭の花が見られる。というわけで、当歳時記としては無季に分類しておくことにした。ただし、掲句の作者は、前後に置かれた他の句から類推すると、秋季として詠んでいるようだ。「俳句研究」(2002年12月号)所載。(清水哲男)




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