November 102002
吊るされて鴨は両脚揃へけり土肥あき子季語は「鴨」で冬。食用に、両脚をくくられ吊るされている鴨だ。既に臓器は取りだされ、毛もむしられて丸裸にされている。両足を「揃へ」てくくったのは人間であるが、作者には、そうは見えなかった。こんなにも残酷で無惨な仕打ちを受けた後にあっても、鴨は最後の力を振り絞って、おのれの矜持を保つかのようにみずからがみずからの意志で脚を揃えたと見た。いや、そう見たかったのだ。なんという優しさだろう。一寸の虫にも五分の魂。掲句には、この言葉と呼応しあう弱者への深い共感が込められている。句を読んで、すぐに思い出したことがある。小学生の頃、学校から戻ると父が庭で焚火をしていた。焚火それ自体は珍しくもなかったが、見てしまったのだった。私が毎日餌をやったり運動をさせたりしていたニワトリの一羽が、焚火の上に逆さ吊りにされ、毛をむしられている姿を……。途端に、頭の中がくらくらっとなり、真っ白になった。夕飯はすき焼きだったけれど、母からいくらすすめられても「食べたくない」と頑強に言い張って、一口も食べなかった。この句を読むまでは思いもしなかったけれど、あのときのニワトリもまた、みずからの意志で両脚をきちんと整えていたに違いないと思えてくる。いや、やはりそう思いたいのだ。三十羽ほどいたなかで、ヤツがいちばん元気で恰好いい雄鶏だった。「朝日新聞」(2002年11月9日付夕刊)所載。(清水哲男) November 092002 電気毛布の中の荒野を父さまよふ林 朋子季語は「毛布」で冬。ついでに「蒲団」も冬の季語なり。さて、ひところ「荒野」という言葉が流行したことがある。五木寛之が『青年は荒野をめざす』という本を書き、加藤和彦が五木の詞で曲を作ってヒットし、「テーブルの上の荒野」「書斎の荒野」などとも使われた。いずれも観念性の強い荒野であり、若者が黙々と開拓すべき荒野として位置づけられていた。掲句の荒野もまた観念的ではあるが、克服すべき荒野ではなく、もはや自力ではどうにもならない対象としての荒野である。身体の弱ってきた「父」が、「電気毛布」をセットしてもらって眠っている。元気な身体であれば、普通の毛布ですむところが、「電気」的に温度をコントロールされた環境でしか寝られなくなっている。そんな父の様子を心配する娘には、方一丈ほどの電気毛布の「中」が荒涼たる野のように思われるのだった。夢を見ているとすれば、どんな夢なのだろうか。楽しい夢であってくれればよいが、傍らの作者には、とてもそうとは想像できない。あてもなく荒野を「さまよふ」父のイメージのみがわいてきて、哀れとも、いとおしいとも……。電気毛布の「電気」が、これほどまでに切なく響いてくる例を、私は他に知らない。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男) November 082002 ふるさとの湯たんぽの湯に顔洗ふ鳥居真里子季
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