久しぶりに予定のない週末だ。何しようかな。寒いから、やっぱりパソコン三昧かな。




2002ソスN11ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 09112002

 電気毛布の中の荒野を父さまよふ

                           林 朋子

語は「毛布」で冬。ついでに「蒲団」も冬の季語なり。さて、ひところ「荒野」という言葉が流行したことがある。五木寛之が『青年は荒野をめざす』という本を書き、加藤和彦が五木の詞で曲を作ってヒットし、「テーブルの上の荒野」「書斎の荒野」などとも使われた。いずれも観念性の強い荒野であり、若者が黙々と開拓すべき荒野として位置づけられていた。掲句の荒野もまた観念的ではあるが、克服すべき荒野ではなく、もはや自力ではどうにもならない対象としての荒野である。身体の弱ってきた「父」が、「電気毛布」をセットしてもらって眠っている。元気な身体であれば、普通の毛布ですむところが、「電気」的に温度をコントロールされた環境でしか寝られなくなっている。そんな父の様子を心配する娘には、方一丈ほどの電気毛布の「中」が荒涼たる野のように思われるのだった。夢を見ているとすれば、どんな夢なのだろうか。楽しい夢であってくれればよいが、傍らの作者には、とてもそうとは想像できない。あてもなく荒野を「さまよふ」父のイメージのみがわいてきて、哀れとも、いとおしいとも……。電気毛布の「電気」が、これほどまでに切なく響いてくる例を、私は他に知らない。『眩草(くらら)』(2002)所収。(清水哲男)


November 08112002

 ふるさとの湯たんぽの湯に顔洗ふ

                           鳥居真里子

湯たんぽ
語は「湯たんぽ(湯婆)」で冬。なぜ「湯婆」と表記されているかは、昨年の冬に書いた。参照。掲句を読んで、確かに「湯たんぽの湯」を、翌朝には顔を洗ったり食器を洗ったりするために使ったことを思い出した。前夜には熱湯を入れて寝るわけだが、さすがに朝になるとぬるま湯になっている。でも、それが洗顔などに使うには、ちょうどよい温度なのだった。でも、これは昔の人の生活の知恵というほどのことでもない。何につけ、使えるものはすべて使い回した時代だったから、とりたてて知恵と称揚するのははばかられる。ま、単純な資源の再利用法には違いないのだけれど……。さて、掲句はむろんリサイクルの考えなどとは関係はないが、かといって、故郷愛ともさして関係はないようだ。私が作者だったら、おそらく「ふるさと」ではなく「ふるさと」と詠嘆してしまうだろう。この一文字の相違は大きいなアと、何度か句を見つめ直した。その上で言うのだが、作者にあるのは、足を暖めるために使った湯を洗顔のために使うというところに面白さを見出したポップ感覚である。あくまでも「ふるさと」は従であり、「湯たんぽ」が主なのだ。「ふるさと」には「湯たんぽ」があっても不思議ではない土地だという、いわばアリバイとしての言葉運びになっている。大雑把は承知だが、元来、季語は多くアリバイとして使われてきた。それが、掲句では完全に逆転している。そこに私は一抹の寂しさを覚えながらも、俳句にとっては面白い時代になってきたのかなとも思った。この問題については、私なりにもっと考える必要がある。その意味で、ちょっと横面を突つかれたような句だった。ところで写真の湯たんぽは、ネットで今、8,000円で売られている純銅製のもの。蹴飛ばしては申し訳ないような風格がありますね(笑)。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


November 07112002

 初冬のけはひにあそぶ竹と月

                           原 裕

冬。冬来たる。暦の上のことだけではなくて、今年は体感的にも納得できる。部屋に暖房を入れてから立冬を迎えるなど、何年ぶりだろうか。メモを見てみたら、昨年は11月19日に初暖房とあった。さて、これから本格的な冬に向かって、我ら人間族は日々かじかんでいくことになる。多くの動植物も、そうだ。そんななかで、むしろ寒ければ寒いほど元気な姿になるものといえば、たとえば掲句に詠まれた「竹と月」だろう。冬の月は皓々と冴えわたり、竹の緑はいっそう色鮮やかとなる。「初冬(はつふゆ)のけはひ(気配)」に「あそぶ」と見えて、当然なのだ。一見地味な句と写るけれど、これぞ自然をよく見つめた花鳥諷詠句のお手本、THE HAIKUだと思う。かじかむ自分の気持ちや様子をもって季節の移り行きをつかまえるのではなく、大きな自然を自然のままに語らせることにより、それを表現している。もとより「あそぶ」の措辞は作者の主観に属するが、これはそうした自然とともに「私があそぶ」の意が強いのであり、ことさらに月と竹を擬人化しているわけではない。白状すれば、私にはまったくと言ってよいほどに、掲句のような自然に対する感覚というのかセンスが欠けている。どこを叩いても、こうした発想を得ることができない。だから余計にTHE HAIKUだなあと、感心することしきりなのである。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)




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