週末には大分行き。九州はいつも飛行機なのだが、なんとなくイヤな予感がして列車で。




2002ソスN10ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 28102002

 冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁

                           北園克衛

語は「冬瓜」で秋。秋に実って冬場まで長持ちするので、この名がついたという。ずんぐりむっくりしていて、煮物にしたりするが、そのものの味は薄い。作者の北園克衛は、モダニズム詩の第一人者。出たばかりの「現代詩手帖」(2002年11月号)が、生誕百年を記念して特集を組んでいる。なかに、没後に藤富保男が編纂した句集『村』(1980)の話題があり、小澤實が紹介を兼ねた文章を寄せている。北園に俳句があることは仄聞していたけれど、原石鼎門であったことは、この特集ではじめて知った。石鼎の主宰誌「鹿火屋」には、ひところ毎号のように詩を書いていたそうだ。ところで、小澤氏は「庫裏(くり)」を本意のままに台所と読んでいるが、これは転じた意味での居間ないしは住居のほうだろう。すなわち「縁」は縁側であって、寺の縁側に、訪ねてきた人の「帽子」と「冬瓜」がぽつねんと置かれている。秋真昼、人影はない。ただ、それだけのことである。しかし、それだけのことが伝えてくるイメージは、いかにもこの国の寺に固有の雰囲気だ。おそらくはソフト帽であろう帽子からは訪問者の人品骨柄がうかがわれるので、傍らにある茫洋とした冬瓜からはミスマッチのとぼけた可笑しみが感じられる。そういえば、私たちの親しい寺にはどこか、こんな具合にいかめしくない情景がついてまわっている。作者は一流のデザイナーでもあったから、このような物の配置は得意中の得意だったと思う。主宰詩誌「VOU」のデザインも素敵だったなア。まだ木造だった新宿紀伊国屋書店で、私がいちばんはじめに買った詩誌が「VOU」であった。(清水哲男)


October 27102002

 頂上や殊に野菊の吹かれ居り

                           原 石鼎

んなに高い山の「頂上」ではない。詠まれたのは、現在は深吉野ハイキングコースの途中にある鳥見之霊時(とみのれいじ)趾あたりだったというから、丘の頂きといったところだろう。鳥見は神武天皇の遺跡とされている。秋風になびく草々のなかで、「殊(こと)に」野菊の揺れるさまが美しく目に写ったという情景。ひんやりとして心地よい風までもが、読者の肌にも感じられる。句は大正元年(1912年)の作で、当時は非常に斬新な句として称揚されたという。何故か。理由は「頂上や」の初五にあった。山本健吉の名解説がある。「初五の や留は、『春雨や』『秋風や』のような季語を置いても、『閑さや』『ありがたや』のような主観語を持ってきても、一句の中心をなすものとして感動の重さをになっている。それに対して『頂上や』はいかにも軽く、無造作に言い出した感じで、半ば切れながらも下の句につながっていく。その軽さが『居り』という軽い結びに呼応しているのだ。『殊に』というのも、いかにも素人くさい。物にこだわらない言い廻しである。そしてそれらを綜合して、この一句の持つ自由さ、しなやかさは、風にそよぐ野菊の風情にいかにも釣り合っている」。言い換えれば、石鼎はこのときに、名器しか乗せない立派な造りの朱塗りの盆である「や」に、ひょいとそこらへんの茶碗を乗せたのだった。だから、当時の俳人はあっと驚いたのである。いまどきの俳句では珍しくもない手法であるが、それはやはり石鼎のような開拓者がいたからこそだと思うと、この句がいまなお俳句史の朱塗りの盆に乗せられている意味が理解できる。『花影』(1937)所収。(清水哲男)


October 26102002

 あきくさをごつたにつかね供へけり

                           久保田万太郎

書に「友田恭介七回忌」とある。友田恭介は新劇の俳優だった。戦時中、友田夫人の女優・田村秋子らとともに、万太郎は文学座を結成する手筈だったが、友田の応召、そして戦死で、計画は宙に浮いた。すなわち盟友の七回忌というわけで、「ごつたにつかね(束ね)」の措辞に、作者万感の思いが込められている。「あきくさ(秋草)」は秋の草花や雑草の総称であり、むろん秋の七草も含まれているけれど、作者は草の名の有名無名を問わず、あえて「ごつたに(乱雑に)」混ぜ合わせて供えたのだ。友田にはこれがふさわしいと、いかにも親愛の情に溢れた供え方である。この供え方にはまた、有名無名などにとらわれず、生き残った我々は貴君が存命だったころと同じように、ひたすら良い舞台作りに専念していると、故人への近況報告も兼ねていると読める。そしておそらく「あきくさ」の「あき」は、墓前の田村秋子の「秋」にかけられているのだろう。残されているエピソードなどから推して、田村秋子は決して時流などには流されない強い芯を持っている人だったようだ。友田が戦死したとき、さっそく取材に訪れた新聞記者に、こう語ったという。「友田は役者ですから、舞台で死ぬのなら名誉だと思うし、本望だと思うけれど、全然商売違いのところで、あんな年取った者があんな殺され方をして、何が名誉なんでしょう。 『主人が名誉の戦死をしてとても本懐でございますと、健気に言った』なんて、絶対に書かないで下さい。『可哀そうで可哀そうで仕方がない』と言ったと書いて下さい」。『草の丈』所収。(清水哲男)




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