名著待望の復活。J.C.トーマス著・武市好古訳『コルトレーンの生涯』(学研M文庫)。




2002N1012句(前日までの二句を含む)

October 12102002

 雁やアメリカ人に道問はれ

                           秋本敦子

語は「雁(かりがね)」で秋。作者はアメリカ在住なので、アメリカの街で「アメリカ人」に道を尋ねられている。尋ねたアメリカ人は、作者をそこに長く住んでいる人と感じたからであり、合衆国なので人種の違いなどには関係なく尋ねたのだ。べつに、特別なことが起きたわけではない。つまり、作者はすっかり地元の人の顔をしていたというわけであり、そのことをこのアメリカ人によって気づかされ、海外生活の長さをあらためて思ったのだった。そうか、私もいつしか土地の人になっていたのか。空を渡る雁のようにはるか遠くからやってきて、しかし、雁のように故郷には帰らないでいる自分を、ふと不思議な存在のように認めている。いつか日本に戻ろう、いつかは帰れる。あくまでも、アメリカは仮住まいの土地……。そんな気持ちを、ずっと引きずっていたからこその感慨だろう。海外でなくても、日本の大都会に出てきている人のなかには、何かの折りに、同じ気持ちになることもあるはずだ。句集の掲句の次には「終の地と思ふ狗尾草あれば」が置かれている。「狗尾草(えのころぐさ)」は、別名「ねこじゃらし」。望郷の念断ちがたし。しかれども、せめて懐しい狗尾草に故郷を感じながら、生涯この土地の人として暮らしていくのであろう予感がする。いよいよ、切なさの募る句だ。『幻氷』(2002)所収。(清水哲男)


October 11102002

 折衷案練る眠たさよ草の絮

                           守屋明俊

語は「草の絮(わた)」で秋。秋の草から出る穂のこと、「草の穂」に分類。たぶん、会議中の句だと思う。議論が平行線をたどり、なかなか会議が終わらない。しかし、案件は緊急の決着を要する。どうしても、この会議で決める必要がある。みんな、だいぶ疲れてきた。ここらあたりで「折衷案」でも出さないことには、いつまでも続きそうだ。作者は、日ごろから、そんなまとめ役を期待されるポジションにあるのだろう。そこであれこれと考えをめぐらすわけだが、なにせ折衷案なので気が乗らないのである。みんなの考えを立て、面子を立て、しかも発言者が卑屈に思われないようなアイデアが必要だ。正面から自分の意見で立論するよりも、折衷して物を言うほうが、よほど難しい。私などは、そもそも会議それ自体が嫌いだから、こういうときには投げやりになりがちだが、作者はなんとかねばっている。ねばってはいるのだけれど、疲れもたまってきて、だんだん眠くなってきた。会議室の花瓶に野の草が活けてあるのか、あるいは窓の外に点々と雑草が見えているのか。その茫洋として掴みがたいたたずまいに、いよいよ眠たさが増してくる……。これではならじと、小さく頭を振っている作者の姿が見えるようだ。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


October 10102002

 こぼさじと葉先と露と息合はす

                           粟津松彩子

者、八十三歳の句。どうにも解釈がつかなかったので、しばらく放っておいた。というのも「こぼさじと」の主格が「葉先」だけであれば問題はないのだが、明らかに「露」の主格でもあるからだ。はじめは、こう考えた。こぼすまいとする葉先と、こぼされまいとする露。必死の両者が息を詰めるようにして「息」を合わせているうちに、葉先と露とがお互いに溶けあい浸透して合体したかのような状態になった。つまり、完璧に息が合ったとき、もはや葉先は露なのであり、露も葉先なのであるという具合に……。これでよいのかもしれないけれど、なんとなく引っ掛かっていて、何日か折に触れては考えているうちに、閃いたような気がした。ああ、そういうことだったのか。すなわち「こぼさじと」の主格は葉先と露両者であるのは動かないのだが、だとすれば「こぼさじ」の目的語は何だろう。閃いたというのは、この句には目的語が置かれていないのではないかということだった。葉先と露との関係から、ついついこぼれるのは露だと決めつけたのがいけなかった。そうではなくて、葉先と露の両者が「こぼすまじ」としているのは、句には書かれていないものではないのか。たとえば、目には見えない高貴なもの、神々しいもの……。そう解釈すれば、句はすとんと腑に落ちる。で、ようやくここに紹介することができたという次第だ。理屈っぽくなりました。ごめんなさい。『あめつち』(2002)所収。(清水哲男)




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