マウスが壊れた。代替品があったからよかったものの…。さてマウスはいくらするのか。




2002ソスN10ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 11102002

 折衷案練る眠たさよ草の絮

                           守屋明俊

語は「草の絮(わた)」で秋。秋の草から出る穂のこと、「草の穂」に分類。たぶん、会議中の句だと思う。議論が平行線をたどり、なかなか会議が終わらない。しかし、案件は緊急の決着を要する。どうしても、この会議で決める必要がある。みんな、だいぶ疲れてきた。ここらあたりで「折衷案」でも出さないことには、いつまでも続きそうだ。作者は、日ごろから、そんなまとめ役を期待されるポジションにあるのだろう。そこであれこれと考えをめぐらすわけだが、なにせ折衷案なので気が乗らないのである。みんなの考えを立て、面子を立て、しかも発言者が卑屈に思われないようなアイデアが必要だ。正面から自分の意見で立論するよりも、折衷して物を言うほうが、よほど難しい。私などは、そもそも会議それ自体が嫌いだから、こういうときには投げやりになりがちだが、作者はなんとかねばっている。ねばってはいるのだけれど、疲れもたまってきて、だんだん眠くなってきた。会議室の花瓶に野の草が活けてあるのか、あるいは窓の外に点々と雑草が見えているのか。その茫洋として掴みがたいたたずまいに、いよいよ眠たさが増してくる……。これではならじと、小さく頭を振っている作者の姿が見えるようだ。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


October 10102002

 こぼさじと葉先と露と息合はす

                           粟津松彩子

者、八十三歳の句。どうにも解釈がつかなかったので、しばらく放っておいた。というのも「こぼさじと」の主格が「葉先」だけであれば問題はないのだが、明らかに「露」の主格でもあるからだ。はじめは、こう考えた。こぼすまいとする葉先と、こぼされまいとする露。必死の両者が息を詰めるようにして「息」を合わせているうちに、葉先と露とがお互いに溶けあい浸透して合体したかのような状態になった。つまり、完璧に息が合ったとき、もはや葉先は露なのであり、露も葉先なのであるという具合に……。これでよいのかもしれないけれど、なんとなく引っ掛かっていて、何日か折に触れては考えているうちに、閃いたような気がした。ああ、そういうことだったのか。すなわち「こぼさじと」の主格は葉先と露両者であるのは動かないのだが、だとすれば「こぼさじ」の目的語は何だろう。閃いたというのは、この句には目的語が置かれていないのではないかということだった。葉先と露との関係から、ついついこぼれるのは露だと決めつけたのがいけなかった。そうではなくて、葉先と露の両者が「こぼすまじ」としているのは、句には書かれていないものではないのか。たとえば、目には見えない高貴なもの、神々しいもの……。そう解釈すれば、句はすとんと腑に落ちる。で、ようやくここに紹介することができたという次第だ。理屈っぽくなりました。ごめんなさい。『あめつち』(2002)所収。(清水哲男)


October 09102002

 鳥渡るこきこきこきと罐切れば

                           秋元不死男

わゆる「新興俳句事件」に連座して、作者は戦争中に二年ほど拘留されていた。その体験に取材した句も多いが、掲句は自由の身になった戦後の位置から、拘留のことを思いつつ作句されている。拘留時の作者は、おそらく自由に空を飛ぶ鳥たちに、羨望の念を禁じえなかっただろう。鳥たちは、あんなに自由なのに……。古来、捕らわれ人の書いたものには、そうした思いが散見される。だが、ようやく自由の身を得た作者には、必ずしも「渡り鳥」の自由が待っていたわけではない。冷たい世間の目もあっただろうし、なによりも猛烈な食料難が待っていた。あの頃を知る人ならば、作者が切っている缶詰が、どんなに貴重品だったかはおわかりだろう。その貴重品を食べることにして、ていねいに「こきこきこき」と切る気持ちには、複雑なものがある。「こきこきこき」の音が、名状しがたい気持ちをあらわしていて、切なくも悲しい。身の自由が、すべて楽しさにつながるわけじゃない。こきこきこき、そして、きこきこきこ、……。この「罐」を切る音が、いつまでも心の耳に響いて離れない。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)




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