2002N10句

October 01102002

 十月やみづの青菜の夕靄も

                           藤田湘子

や「十月」。今月は「体育の日」もあったりして、抜けるような青空を連想しがちだが、統計的に言っても、とくに前半は雨の日も多い。空気が湿りがちだから、靄(もや)や霧が発生しやすい月である。掲句は、そんな湿り気を帯びた十月をとらえて、見事なポエジーを立ち上らせている。戸外の共同炊事場だろうか。「みづ(水)」に漬けられた「青菜」に、うっすらと「夕靄」がかかっている。本来ならば鮮やかな色彩であるはずのものが、半透明に霞んでいる。美しさを感じると同時に、なんとはなしに寂寥感も覚える句だ。美しくもそぞろ寒い夕暮れの光景が、読む者の心を秋深しの思いに連れていくのである。「夕靄も」の「も」が、とても効果的だ。「も」があるから、句の世界が青菜一点にとどまらず、外に開かれている……。ところで以前にも書いたような気もするが、靄と霧の違いは、気象学的には次のようだ。「気象観測では視程が1キロ以上のときを『もや』、1キロ以下のときを霧としているので、気象観測でいうもやは、霧の前段階の現象である」〈大田正次〉。ちなみに「視程(してい)」は、「大気の混濁度を示す尺度。適当に選んだ目標物が見えなくなる距離で表す[広辞苑第五版]」。昨今の東京あたりでは、朝靄はのぞめても、句のような夕靄には、まずお目にかかれなくなった。「煙霧」ばかりになってしまった。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


October 02102002

 台風一過小鳥屋の檻彩飛び交ふ

                           大串 章

風一過というと、まず真っ青な空が目に浮かぶ。「やれやれ」と安堵して、ひとりでに目が空を泳いでしまう。そんな句が(たぶん)多いなかで、作者の視点はユニークだ。真っ暗だった街に生気がよみがえってきた様子を、「小鳥屋の檻」のなかで「飛び交ふ」鳥たちの色彩に託して詠んでいる。普段ならば、檻の中の小鳥は必ずしも生気を示しているとは言えないけれど、台風で周囲が暗かっただけに、とりわけて「彩」が目立つのだ。ところでこの小鳥たちは、平常どおりの動きをしているのだろうかと思った。というのも、掲句が載っている『合本俳句歳時記・第三版』(1997)の隣りに、加藤憲曠の「一樹にこもる雀台風去りし後」があったからである。雀の生態は知らないが、この句の雀たちは、明らかにおびえている。身を寄せ合って、なお警戒していると写る。野生の本能的な身構えだ。比べて、飼われている鳥たちはどうなのだろうか。まったく野生が失われているとは考えられないから、やはり天変地異には敏いのではあるまいか。だとすれば、台風後のこの鳥たちは、いわば狂ったように飛び回っているのかもしれない。美しい狂気。「鳥篭」と言わず、敢えて「檻」としたのは、そのことを表現するためだと読むと、句の景色はよほど変わってくる。(清水哲男)


October 03102002

 枯色も攻めの迷彩枯蟷螂

                           的野 雄

語は「蟷螂(とうろう)」で秋。カマキリのこと。世界中には1800種類もいるというが、日本には10種類ほどのようだ。カマキリに保護色はないはずだから、句の「枯蟷螂」とは褐色のカマキリのことだろう。落葉の上や枯れた草陰などにいると、それらと体色とが「迷彩」になって、なかなか姿がわからない。肉食ゆえ、そんな姿で息を殺すようにして、通りかかる獲物を待ちかまえているのだ。これぞ、まさに「攻め」の態勢。枯れた色をしているからといって、命まで枯れているのではない。人間だってそうなんだぞ、枯れてきたからといって馬鹿にしたものじゃないんだぞ。と、古稀を迎えた作者は、このカマキリの攻めの姿勢に大いに共感し、勇気づけられているのだと思う。枯色から来る常識的なイメージをくつがえしてみせたところが、掲句のミソだ。作者はよほどカマキリの攻撃性が好きなのか、句も多い。「目がピカソ枯野を蹴って蟷螂出る」と、これまた勇躍としている句だが、たまには自分が威嚇され攻められかかって「眼づけの蟷螂の目を寝て思う」と神妙になったりもしている。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


October 04102002

 遥かに秋声父母として泣く父母の前

                           中村草田男

語は「秋声(しゅうせい)」、「秋の声」とも。秋になると物音も敏感に感じられ、雨風の音、物の音、すべてその響きはしみじみと胸に染み入る。まことに抽象的な季語で、なかなか外国の人には理解できないだろうが、私たちにはわかる。少なくとも、わかるような気はする。前書に「遺骨を携へて帰郷せし香西氏夫妻」とあり、愛弟子であった香西照雄の次男が事故死したときの句だ。逆縁の悲しみは、筆舌に尽くしがたいものである。その尽くしがたさが多少ともわかるのは、やはり同じ人の子の親だからであり、悲嘆に暮れている「父母の前で」、作者夫妻も「父母として」涙をとどめえなかった……。このときに「秋声」とは、もはや「遥かに」遠くなってしまった故人の元気な声のことでもあろうし、遺骨を前にした衝撃で「遥かに」退いてしまったような現実のあれこれの音のことでもあるだろう。一読、胸の内がしいんと白くなるような絶唱である。先日、草田男・三女の弓子さんにお会いする機会を得た。その折りにいただいた御著書『わが父 草田男』(1996・みすず書房)に、掲句が引かれている。この本が出ていることは知っていたけれど、私は私の草田男像が崩れることを恐れて、今日まで手にしてこなかった。弓子さんにもこのことは率直に申し上げたが、最初の短い文章「風の又三郎」を読んだだけで、大いなる杞憂であったことを知る。わが不明に恥じ入るばかりだ。(清水哲男)


October 05102002

 秋晴や太鼓抱へに濯ぎもの

                           上野 泰

洗濯機
もかもが明るい爽やかな「秋晴」。こんな日には、シーツなどの大きなものも、まとめて洗濯したくなる。1960年(昭和三十五年)の句だから、電気洗濯機で洗ったのか、あるいは昔ながらの盥で洗ったのかは、微妙なところで推測しがたい。写真は当時出回っていた「手動ローラーしぼり機付き洗濯機」(日立製作所)だが、洗濯槽も小さかったし、この「しぼり機」で大きいものをしぼるのは無理だ。やはり、盥でじゃぶじゃぶと濯いだのではあるまいか。また、そのほうが「秋晴」の気分にはよく似合う。で、洗い上げたものを庭の物干場まで持っていくわけだが、何度も往復するのは面倒なので、いっぺんに持てるだけ抱えていく。細い廊下なども通らなければならないから、ちょうど「太鼓」を抱えるときと同じ要領で、洗濯物を両腕で肩幅くらいに細く挟むようにして抱えていくことになる。太鼓でもそうだが、まっすぐ前はよく見えないし、抱えているものに脚も当たる。何も抱えていないとすれば、ちょっとヨチヨチ歩きに似た格好だ。「太鼓抱へ」という言い方が一般的だったのかどうかは知らないけれど、言い得て妙。こうでも言うしか、大量の洗濯物を運ぶ姿は形容できないだろう。しかも秋晴に太鼓とくれば、これはもう小さな祝祭気分すら掻き立ててくる。今日あたりは、全国的に「太鼓抱へ」のオンパレードとなるにちがいない。『一輪』(1965)所収。(清水哲男)


October 06102002

 終バスの灯を見てひかる谷の露

                           福田甲子雄

舎の夜道は暗い。暗いというよりも、漆黒の闇である。谷間の道を行くバスのライトは、だから逆に強烈な明るさを感じさせる。カーブした道を曲がるときには、山肌に密生する葉叢をクローズアップするように照らすので、たまった「露」の一粒までをも見事に映し出す。百千の露の玉。作者は「終バス」に乗っているのだから、旅の人ではないだろう。所用のために、帰宅の時間が遅くなってしまったのだ。めったに乗ることのない最終便には、乗客も少ない。もしかすると、作者ひとりだったのかもしれない。なんとなく侘しい気持ちになっていたところに、「ひかる露の玉」が見えた。それも「灯を見てひかる」というのだから、露のほうが先にバスのライトを認めて、みずからを発光させたように見えたのだった。つまり露を擬人化しているわけで、真っ暗ななかでも、バスの走る谷間全体が生きていることを伝えて効果的だ。住み慣れた土地の、この思いがけない表情は、バスの中でぽつねんと孤立していた気持ちに、明るさを与えただろう。シチュエーションはまったく違うけれど、読んだ途端にバスからの連想で、私は「トトロ」を思い出していた。あのトトロもまた、生きている山村の自然が生みだしたイリュージョンである。『白根山麓』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)


October 07102002

 とつぜんに嘘と気づいて薮虱

                           岡田史乃

薮虱
語は「薮虱(やぶじらみ)」で秋。名前は知らなくても、写真から思い当たる方も多いだろう。山道や野原を歩いていると、いつの間にか薮虱の実が衣服についていることがある。動物にも付着し、この植物が種をばらまくための知恵と言ってよい。そんな薮虱がついていることに「とつぜん」気づくように、誰かに騙されていたことに気づいたというのである。こういうことは、よく起きる。笑い話程度の嘘のこともあれば、深刻な中身をはらんだ嘘のこともある。とにかく、とつぜんに「ふっ」と気がつくのだ。嘘ばかりではなく、なかなか思い出せなかった人の名前や地名など、これはいったい如何なる脳の仕組みから来るものなのだろうか。句に戻れば、嘘の中身は薮虱の実が簡単には払い落とせないことからすると、笑ってすませられるようなものではないことがうかがえる。不愉快を覚えて力任せに払い落としてみるが、たとえ実だけは落ちたとしても、何本かのトゲが残ってしまう薮虱のように後を引く嘘なのだ。嘘と薮虱。取り合わせの妙に、作者の感度の良さを称賛しないわけにはいかない。写真は、青木繁伸(群馬県前橋市)氏の撮影によるが、部分を使わせていただいた。薮虱の花の写真は多いのだけれど、命名の所以である実の写真は意外に少ない。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


October 08102002

 石榴淡紅雨の日には雨の詩を

                           友岡子郷

語は「石榴(ざくろ)」で秋。「淡紅(たんこう)」は、句の中身から推して、晴れていれば鮮紅色に見える石榴の種が、雨模様にけぶって淡い紅に見えているということだろう。句の生まれた背景については、作者自身の弁がある。「今にも降り出しそうな空模様だった。吟行へ連れ立ったグループのひとりが、それを嘆いた。私は励ますつもりでこう言った。『いいじゃないの、雨の日には雨の句をつくればいい』と」(友岡子郷『自解150句選』2002)。俳句の人は、吟行ということをする。俳句をつくる目的で、いろいろなところを訪ね歩く。私のように詩を書いている人間は、そうした目的意識をもってどこかを訪れることはしないので、俳人の吟行はまことに不思議な行為に写る。だから、こういう句に出会うと、一種のショックを受けてしまう。俳人も詩人も同じ表現者とはいっても、表現に至る道筋がずいぶんと違うことがわかるからだ。天気のことも含めて、俳人は事実にそくすることを大切にする。ひるがえって詩人は、晴れた日にも、平気で「雨の詩」を書く。だからといって、なべて詩人は嘘つきであり、俳人は正直者だとは言えないところが面白い。その意味で、掲句は私にいろいろなことを思わせてくれ、刺激的だった。日常会話的に読めば凡庸にも思えるかもしれないが、俳句が俳句であるとはどういうことかという観点から読むと、私には興味の尽きない句である。吟行論を書いてみたくなった。『翌(あくるひ)』(1996)所収。(清水哲男)


October 09102002

 鳥渡るこきこきこきと罐切れば

                           秋元不死男

わゆる「新興俳句事件」に連座して、作者は戦争中に二年ほど拘留されていた。その体験に取材した句も多いが、掲句は自由の身になった戦後の位置から、拘留のことを思いつつ作句されている。拘留時の作者は、おそらく自由に空を飛ぶ鳥たちに、羨望の念を禁じえなかっただろう。鳥たちは、あんなに自由なのに……。古来、捕らわれ人の書いたものには、そうした思いが散見される。だが、ようやく自由の身を得た作者には、必ずしも「渡り鳥」の自由が待っていたわけではない。冷たい世間の目もあっただろうし、なによりも猛烈な食料難が待っていた。あの頃を知る人ならば、作者が切っている缶詰が、どんなに貴重品だったかはおわかりだろう。その貴重品を食べることにして、ていねいに「こきこきこき」と切る気持ちには、複雑なものがある。「こきこきこき」の音が、名状しがたい気持ちをあらわしていて、切なくも悲しい。身の自由が、すべて楽しさにつながるわけじゃない。こきこきこき、そして、きこきこきこ、……。この「罐」を切る音が、いつまでも心の耳に響いて離れない。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


October 10102002

 こぼさじと葉先と露と息合はす

                           粟津松彩子

者、八十三歳の句。どうにも解釈がつかなかったので、しばらく放っておいた。というのも「こぼさじと」の主格が「葉先」だけであれば問題はないのだが、明らかに「露」の主格でもあるからだ。はじめは、こう考えた。こぼすまいとする葉先と、こぼされまいとする露。必死の両者が息を詰めるようにして「息」を合わせているうちに、葉先と露とがお互いに溶けあい浸透して合体したかのような状態になった。つまり、完璧に息が合ったとき、もはや葉先は露なのであり、露も葉先なのであるという具合に……。これでよいのかもしれないけれど、なんとなく引っ掛かっていて、何日か折に触れては考えているうちに、閃いたような気がした。ああ、そういうことだったのか。すなわち「こぼさじと」の主格は葉先と露両者であるのは動かないのだが、だとすれば「こぼさじ」の目的語は何だろう。閃いたというのは、この句には目的語が置かれていないのではないかということだった。葉先と露との関係から、ついついこぼれるのは露だと決めつけたのがいけなかった。そうではなくて、葉先と露の両者が「こぼすまじ」としているのは、句には書かれていないものではないのか。たとえば、目には見えない高貴なもの、神々しいもの……。そう解釈すれば、句はすとんと腑に落ちる。で、ようやくここに紹介することができたという次第だ。理屈っぽくなりました。ごめんなさい。『あめつち』(2002)所収。(清水哲男)


October 11102002

 折衷案練る眠たさよ草の絮

                           守屋明俊

語は「草の絮(わた)」で秋。秋の草から出る穂のこと、「草の穂」に分類。たぶん、会議中の句だと思う。議論が平行線をたどり、なかなか会議が終わらない。しかし、案件は緊急の決着を要する。どうしても、この会議で決める必要がある。みんな、だいぶ疲れてきた。ここらあたりで「折衷案」でも出さないことには、いつまでも続きそうだ。作者は、日ごろから、そんなまとめ役を期待されるポジションにあるのだろう。そこであれこれと考えをめぐらすわけだが、なにせ折衷案なので気が乗らないのである。みんなの考えを立て、面子を立て、しかも発言者が卑屈に思われないようなアイデアが必要だ。正面から自分の意見で立論するよりも、折衷して物を言うほうが、よほど難しい。私などは、そもそも会議それ自体が嫌いだから、こういうときには投げやりになりがちだが、作者はなんとかねばっている。ねばってはいるのだけれど、疲れもたまってきて、だんだん眠くなってきた。会議室の花瓶に野の草が活けてあるのか、あるいは窓の外に点々と雑草が見えているのか。その茫洋として掴みがたいたたずまいに、いよいよ眠たさが増してくる……。これではならじと、小さく頭を振っている作者の姿が見えるようだ。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


October 12102002

 雁やアメリカ人に道問はれ

                           秋本敦子

語は「雁(かりがね)」で秋。作者はアメリカ在住なので、アメリカの街で「アメリカ人」に道を尋ねられている。尋ねたアメリカ人は、作者をそこに長く住んでいる人と感じたからであり、合衆国なので人種の違いなどには関係なく尋ねたのだ。べつに、特別なことが起きたわけではない。つまり、作者はすっかり地元の人の顔をしていたというわけであり、そのことをこのアメリカ人によって気づかされ、海外生活の長さをあらためて思ったのだった。そうか、私もいつしか土地の人になっていたのか。空を渡る雁のようにはるか遠くからやってきて、しかし、雁のように故郷には帰らないでいる自分を、ふと不思議な存在のように認めている。いつか日本に戻ろう、いつかは帰れる。あくまでも、アメリカは仮住まいの土地……。そんな気持ちを、ずっと引きずっていたからこその感慨だろう。海外でなくても、日本の大都会に出てきている人のなかには、何かの折りに、同じ気持ちになることもあるはずだ。句集の掲句の次には「終の地と思ふ狗尾草あれば」が置かれている。「狗尾草(えのころぐさ)」は、別名「ねこじゃらし」。望郷の念断ちがたし。しかれども、せめて懐しい狗尾草に故郷を感じながら、生涯この土地の人として暮らしていくのであろう予感がする。いよいよ、切なさの募る句だ。『幻氷』(2002)所収。(清水哲男)


October 13102002

 悪友が母となりたる秋真昼

                           土肥あき子

い言葉だな、「悪友」とは。御承知のように、親しい友人や遊び仲間を親しみを込めて反語的に呼ぶ。英語の「bad friend」ともニュアンス的に重なるところはあるものの、日本語では英語のようにストレートな「悪い仲間」の意味は希薄である。その悪友が無事に出産したことを、作者は「秋真昼」に知る。爽やかな秋晴れのなか、電話で知らされたのであろう作者の胸のうちには、おそらく咄嗟には何の感慨も浮かばなかったと思いたい。この種の出来事の感慨には、時間がかかるものなのだ。感じたとすれば、親しかった友だちが、急にすうっと別の世界に行ってしまったという一種の疎外感ではあるまいか。何をするにも気持ちが合い、何につけても趣味が合い、一心同体は大袈裟にしても、とにかく打てば響くの間柄であるがゆえの疎外感……。むろん前もって出産予定日などはよく承知していたはずだけれど、事がいざ現実となって訪れてみれば、ただただ無感動にぽかんとしてしまったのだ。だいぶ以前に、どこかの雑誌で誰かが掲句を評する際に、なぜ「秋真昼」なのかと必然性に疑問を呈していたのを覚えている。ったく、センスがないねえ。ならば、たとえば「秋の朝」とか「秋の夜」とかに読み替えてごらんなさい。句に滲む微妙な疎外感が、たちまちにして乾きを失いリアリティを失い色褪せてしまうのは明白でしょうが。この句は、絶対に「秋真昼」でなければ成立しません。『鯨が海を選んだ日』(2002)所収。(清水哲男)


October 14102002

 赤い羽根失くす不思議を言ひ合へる

                           岡本 眸

月は「赤い羽根」をシンボルとする共同募金の月。募金方法の多様化効率化に伴い、最近は赤い羽根を胸につけた人の姿が減ってきたけれど、「赤い羽根関所の如く売られおり」(布目芳子)の「関所」全盛期には、小学生も含めてかなりの人がつけていた。ところで、言われてみれば、なあるほど。あの羽根は、毎年、煙のように掻き消えてしまう。たいていの人が意識して捨てることはないだろうに、いつの間にやらふっと「失く」なってしまうのである。全国的に膨大な量が出回るわけだが、いったい、どこに消えていくのだろうか。たしかに「不思議」な話だ。さて、豆知識。「『赤い羽根』を共同募金のシンボルとして使ったのは、アメリカが最初です。1928年からアメリカの一部の地方において、水鳥の羽を赤く染めて使っていました。(現在ではシンボルマークを使用)これにヒントを得て、日本でも1948(昭和23)年、第2回の運動から「赤い羽根」をシンボルとして使うことになりました。日本では『家きん』(食用)として飼育されていて手に入れやすく、柔らかい感じのニワトリの羽を使っています。最近では中国から輸入する赤い羽根も出回っています。赤い羽根は一本あたり1.6円です」(「共同募金」ミニコラム)。近年は、インターネットでも募金できるそうだ。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


October 15102002

 樫の實や郵便箱に赤子の名

                           吉田汀史

語は「樫の實(実)」で秋。ドングリの一種。ただし、真ん丸いクヌギの実のみをドングリという場合もある。前書に「舊川上村」とあるから町村合併で村の名は失われたのだろうが、旧名からしていまなお人家の少ない山里の地が想像される。よく晴れた秋の日に、作者はたぶん出産のお祝いで、知人の家を訪ねたのだろう。玄関先に立つと、もう生まれたばかりの「赤子の名」が「郵便箱」に黒々と書かれていた。落ちてきた「樫の實」が、いくつか郵便箱の上にも乗っている。赤子とドングリ。この自然の取りあわせが、なんともほほ笑ましい。むろん、作者も微笑している。郵便箱に赤子の名を書いたからといって、赤子宛に郵便物が届くはずもないけれど、当家には家族が一人増えましたよというメッセージを世間に伝えているわけだ。そこの家族全員の喜びの表現である。昔はよくこんなふうに家族全員の名前を書いた郵便箱を見かけたが、最近はとんとお目にかからない。物騒な世の中ゆえ、家族構成が一目でわかるような情報を世間に晒すなどはとんでもないと考えるようになったからだ。我が集合住宅の郵便受けにもそんな表記は一つもないし、戸主のフルネームすら書いてない。すべて、苗字だけである。むろん、私のところも(苦笑)。そのうちに、苗字すらもが暗号化されるイヤ〜な時代がやって来そうだ。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


October 16102002

 蚊帳吊るも寒さしのぎや蟲の宿

                           富田木歩

帳(かや)が出てくるが、季節は「蟲(虫)」すだく秋の候。夜がかなり寒くなってきた、ちょうど今頃の句だろう。「蟲の宿」は自宅だ。一読、この生活の知恵には意表を突かれた。冷え込んできたからといっても、まだ重い冬の蒲団を出すほどの本格的な寒さではない。夏のままの夜具を使いまわしながら、なんとなく一夜一夜をやり過ごしてきた。が、今夜の冷えはちょっと厳しいようだ。思い切って冬のものに切り換えようかとも思ったけれど、また明日になれば暖かさが戻ってくるかもしれない。そうなると厄介だ。何か他に上手い方策はないものか。と考えていて、ふと蚊帳を吊って寝ることを思いついたのである。どれほどの効果があるものかはわからないが、夏の蚊帳の中での体験からすると、あれはかなり暑い。となれば、相当な防寒効果もあるのではないか。きっと大丈夫。我ながら名案だなと、作者は微苦笑している。ご存知の方も多いように、木歩は幼いときに歩行の自由を失い、鰻屋だった家も没落して、世間的には悲惨な生涯を送った人だ。だから彼の句は、とかく暗く陰鬱に読み解かれがちだが、全部が全部、暗い句ばかりではない。掲句の一種の茶目っ気もまた、木歩本来の気質に備わっていたものである。小沢信男編『松倉米吉・富田木歩・鶴彬』(2002・EDI叢書)所収。(清水哲男)


October 17102002

 百日紅より手を出す一人百人町

                           小川双々子

語は「百日紅(さるすべり)」で夏だが、名の通りに花期が長く、我が家の近くではまだ咲き残っている。「百人町」といえば東京の新宿区百人町が知られるが、句のそれは、作者が愛知県の人なので、名古屋市東区にある百人町だろう。建中寺の東に接して東西に細長く伸びた町で、その昔、百人組と呼ばれた身分の低い武士が住んでいた。道路は細く迷路のように入り組んでおり、これはむろん矢弾の進入を防ぐためにデザインされたからだ。いまでも、そこここに名残が見られるという。そんな町は、歩いているだけで不思議な感じになるものだ。町の歴史を反芻するようにして、一つ一つの不思議に合点がいったりいかなかったり……。それが、とある庭のとある百日紅の間から、いきなりにゅっと人の手が出てきたとなれば、不思議さにとらわれていただけに、ぎょっとした。手を出した人には何か理由があったからだが、出されたほうにしてみれば、理由などわからないからびっくりしてしまう。ここで「百日紅」と「百人町」の「百」と、それに挟まれた「一人」の「一」との対比が効いてくる。「百」は全であり「一」は個だ。つまり全にとらわれている気持ちに、個は入っていない。町全体の不思議にいわば酔っているときに、急に全からは想像もつかない個のふるまいが示されたのだからびっくりして、個であるその人を逆に強く意識することになったのだ。上手に解釈ができなくてもどかしいけれど、百人町が百日紅と言葉遊び的に配置されたのではなく、この町ならではの句であることを言っておきたかった。俳誌「地表」(2002・第417号)所載。(清水哲男)


October 18102002

 雁わたし猫はなま傷舐めてゐる

                           渡部州麻子

語は「雁わたし」で秋。「青北風(あおきた)」とも呼ばれ、ちょうど雁がわたってくるころに吹くので、雁わたし(雁渡し)と言う。手元の歳時記を見ると、陰暦八月ごろに吹く北風のこととある。いまは、陰暦の九月だ。仕事で天気の様子と毎日つきあっているからわかるのだが、東京あたりでは例年、陽暦十月の今頃になると、北風の吹く日が多くなってくる。これがおそらく「雁わたし」だろうと、私は勝手に決めつけています。こいつが吹き始めると、朝夕はめっきり冷え込んでくる。日中いかに良く晴れて暖かくても、吹く風にどこか冬の気配が入り交じってくる。そんなある日に、猫が「なま傷」を舐めているという情景。喧嘩でもしてきたのだろう。自分の傷を自分で癒しているわけだが、健気でもあり寂しくも写る情景だ。寒い季節がやってくると、とくに猫は不活発になる。そう思えば、この負け戦でこの猫の活発な時期も終わりになるのかもしれない。そしてこのことは、「猫が」ではなく「猫は」の「は」によって、他の生きとし生けるものすべてに通じていく。いまのうちに「なま傷」は舐めておかなければ、みずからの力で癒しておかなければ……。来たるべき冬に対する、いわば本能的な身繕い、身構えの姿勢の芽生えを、さりげなく演出してみせた佳句である。今年度俳句研究賞候補作品「耳ふたつ」五十句の内。「俳句研究」(2002年11月号)所載。(清水哲男)


October 19102002

 秋の虹消えてしまえばめし屋の前

                           松本秋歩

の虹は色も淡く、はかなく消えてしまう。寂寥感に誘われる。「めし屋」は洒落たレストランなどではなくて、ただ「めし」を食いに行くためだけの店だ。定食屋の類である。間借りをしていると、大家さんの台所は使わせてもらえないので、三食とも外食ということになる。昔は学生はもとより、働いている人にも間借り人が多かった。コンビニ一つあるわけじゃなし、食えるときに食っておかないと、夜は空きっ腹を抱えて寝なければならない。作者もまた、食えるときに食っておこうと表に出てみると、思いがけなくも虹がかかっていた。ちょっと得したような気分になったが、しかし見ている間に消えてゆき、いつものめし屋の前にいた。しばしの幻にうっとりとしかけた心が、すっとがさつな現実に舞い戻った瞬間をとらえている。汚れた暖簾をくぐれば、変哲もない秋刀魚定食や鯖の味噌煮定食が待っている。「めし屋」といえば、私が学生時代によく通ったのは、京都烏丸車庫の前にあった「烏丸食堂」だった。下宿から五分ほど。十人も入れば満杯の小さな店で、安かった。だが、金欠になってくると安い定食も食えなくなる。そんなときは、仲よくなった店のおねえさんに小声で頼んで、丼一杯の飯だけにしてもらう。そいつに、タダの塩を振りかけて食っていると、おねえさんがそっと「おしんこ」をつけてくれたりして、なんだか人情映画の登場人物みたいになったときもあったっけ。おねえさん、元気にしてるかなあ。そんなことも思い出された掲句でありました。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


October 20102002

 萩の家わずかな水を煮ていたり

                           下山光子

冠に秋と書いて「萩」。古来、秋を代表する花とされてきた。『枕草子』に「萩、いと色深う枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れてなよなよと広ごり伏したる……」とあるように、凛とした姿ではない。「たをやか」「なよなよ」とした風情が、この季節のどことなく沈んだような空気に似合うのである。そんな萩を庭や垣根に咲かせている家は、たとえば薔薇の庭を持つ家などとは違って、とてもつつましく写る。住んでいる人を知らなくても、暮らしぶりまでもがつつましいのだろうと思われてくる。作者もまた、単に通りがかっただけなのだろう。「煮ていたり」とは書いているが、実際に台所を見たのではなく、つつましやかな「萩の家」の風情から来た想像だと、私には読める。こういう家では、こういうことが行われているのが相応しいとイメージして、詠んだのだと思う。水はふつう「煮る」とは言わず、「沸かす」と言う。が、そこをあえて「煮る」と言ったのは、「沸かす」の活気を押さえたかったからに違いない。「わずかな水」なのだから、この人は一人暮らしだ。自分のためだけの水を、ひとりひっそりと煮ている姿を想像して、作者は「萩の家」の風情に、いつそうの奥行きを与えたのである。『句読点』(2002)所収。(清水哲男)


October 21102002

 釣月軒隣家の柿を背負ひをり

                           星野恒彦

釣月軒
蕉の生家(三重県上野市)の奥の離れが「釣月軒(ちょうげつけん)」。粋な命名だ。『貝おほひ』執筆の書斎であり、その後も帰省するたびに立ち寄っている。生家とともに当然のように観光名所になっているが、私は行ったことなし。ただ、写真はそこら中に溢れているので、行かなくても、だいたいの様子はわかったような気になっていた。しかし、掲句ではじめて「隣家(となり)」に大きな柿の木があることを知り、私の中のイメージは、かなり修正されることになる。まさか芭蕉の時代の柿の木ではないにしても、柿を植えるような庭のある隣家と接していたと思えば、にわかに往時の釣月軒のたたずまいが人間臭さを帯びてきたからだ。観光用や資料用の写真では、私の知るかぎり、この柿の木は写っていない。「背負ひをり」と言うくらいだから、この季節だと写り込んでいてもよさそうなものだが、写っていたにしても、すべてトリミングで外されているとしか思えないのだ。なぜ、そんな馬鹿なことをするのだろう。釣月軒であれ何であれ、建物は周囲の環境とともにあるのであって、それを写さなければ情報の価値は半減してしまうのに……。俳句は写真ではないけれど、作者はただ見たままにスナップ的に詠んだだけで、軽々と凡百の写真情報を越えてしまっている。釣月軒を見たこともない私に、そのたたずまいが写真よりもよく伝わってくる。「背負ひをり」はさりげない表現だが、建物のありようをつかまえる意味において、卓抜な措辞と言うべきだろう。写真は、よくある釣月軒紹介写真の例。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


October 22102002

 秋霖や右利き社会に諾へり

                           大塚千光史

マウス
語は「秋霖(しゅうりん)」で、秋雨よりも寂しい語感を含む。さて、作者は左利きだ。古来、洋の東西や人種の差異を問わず、左利きの人は一割くらいいるそうだ。最近は左利きの人をよく見かけるようになったけれど、これは子供の頃に親が強制して右利きに直さなくなったからで、左利き人口が特に増えてきたわけではないらしい。一割しかいないのだから、当然のように、この世は「右利き社会」になっている。鋏だとかドアのノブ、あるいは駅の自動改札口など、多くのものが右利き用にできている。パソコンのキーボードにしても、両手を使うから右も左も関係ないように見えて、実はある。右側にしかないenter(もしくはreturn)キーの位置だ。このキーは、何かを決定するときに押す。決定は、利き手で下したいのが人情だろう。したがって、わざわざ右側に配置してあるというわけだ。万事がこのようだから、左利きの人は物理的心理的に不満を感じながらも、右利き社会に「諾(うべな)」つて、つまり服従して暮らすほかはないわけだ。句はそんな我が身を慨嘆しているが、具体的なきっかけがあっての嘆きのはずだと、いろいろと考えてみた。雨と左利きとの関係で、考えられる道具としては傘が浮かんでくる。はじめは傘を持ちながらノブを回すようなときの不便さかとも思ったが、これは右利きにしても不便なので、根拠としては薄弱だろう。で、思いついたのが、傘をたたんで建物に入るときのことだった。たいていの人は、傘を巻くか、きちんと巻かないまでもボタンくらいは止めるだろう。やってみるとわかるように、左手で巻くのはとても難しい。雨のたびにこの不便さを感じさせられるのだから、右手社会に服従させられていると恨んで当然である。写真は、アメリカの通販カタログで見つけた左利き用のマウス。全体として左側に傾斜している。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


October 23102002

 草原に人獣すなおに爆撃され

                           阪口涯子

季句。かつての大戦中の作品で、往時の作者は中国の大連にいた。作句年度は古いけれど、この世に戦争があるかぎり、掲句は古びることはないだろう。戦争は「人」のみを殺すのではない。「獣」もまた、殺されていく。殺されるという意味では、人も獣も同じ位置にある生き物なのであって、ひとくくりに「人獣」でしかない。果てしなく広がる草原の上空に、突如爆撃機の黒い編隊が現れ、容赦なく大量の爆弾を投下しはじめる。といっても、敵が何もない草原を攻撃するはずもないから、そこには町があり工場や学校があり、そして基地がある。むろん、人もいて獣もいる。それら攻撃対象を、まるで何もない場所であるかのようにアタックする感覚には、眼下に展開する風景はただの「草原」にしか見えないだろうし、攻撃される側にしても、その無防備に近い状態において、さながら「草原」に身をさらしているように感じられるということだ。すなわち「すなおに」爆撃されるしかないのである……。このときに「すなおに」とは、何と悲しい言葉だろうか。苛烈な現実を声高に告発するのではなく、現実を透明で無音の世界に引き込んでいる。この句には、爆撃の閃光もなければ轟音もないことに気がつく。しかし、現実として人獣は確かに死んでいくのである。今日、作者の涯子(がいし)を知る人は少ないだろうが、高屋窓秋の盟友であり、新興俳句の旗手であった。もっと読まれてよい俳人だ。『北風列車』(1950)所収。(清水哲男)


October 24102002

 定年やもみじはらはらうらおもて

                           八木忠栄

語は「紅葉散る」でもよいけれど、当サイトとしては「紅葉かつ散る」に分類しておきたい。紅葉している木もあれば、散っている木もあるという意味だ。すなわち、定年に達した自分もいるし、もうすぐ定年になる同僚もいるというのが会社というところである。このところ、定年を迎える友人知己が増えてきた。作者も、その一人だ。挨拶状を受け取るたびに、なんだか自分も定年を迎えたような気分になる。そんな年齢になってしまったのだ。サラリーマンを早くに止めてしまった私には、定年者の感慨はもちろん想像してみる他はない。人それぞれではあろうけれど、案外、共通した思いもありそうだと思う。会社組織が似たような構造を持つ以上、そこを離れる者にも似たような感想も生まれるのではあるまいか。掲句は、そういうことを言っているような気がする。すなわち、個人的な感慨はとりあえず別にして、定年者一般の心持ちを美しく散り逝く「もみじ」の光景に託している。作者も「はらはらと」散った葉の一枚にはちがいないけれど、どの葉が自分であるのかはわからない。散り敷いて、「うら」になっている葉もあれば「おもて」のものもある。「うらおもて」などは、なおさらにわからない。しかし、そんなことはどうでもいいのさ。みんな、お互いによく働いたね。なお「はらはらと」散る紅葉を浴びながら、作者は心の内で、そう呼びかけている。個人誌「いちばん寒い場所」(2002年・40号)所載。(清水哲男)


October 25102002

 長き夜やパラパラ漫画踊らせて

                           石田たまみ

着の「俳句界」(2002年11月号)が「新鋭俳人大競詠」を組んでいる。好奇心にかられて、それこそパラパラとページをめくっていたら、この句が目に飛び込んできた。いや、正しくは「パラパラ漫画」の文字が、飛び込んできたのだった。懐しや。パラパラ漫画は、アニメーションの原点だ。一枚一枚の紙に、少しずつ動きをずらした絵を描いておき、それらをきちんと重ねてから、指でパラパラと弾くようにめくると絵が動く仕掛けである。子供のころに熱中したことがあって、主として製本のしっかりした教科書の左右の余白を使い、たとえば上から降りてくる落下傘などを一コマずつ描いては動かして、悦に入っていたものである。「残像現象」という難しげな言葉も、誰かに教わってそのころに覚えたことを思い出した。テレビもなかったし、漫画映画もあるにはあったが、めったに見る機会はなかったので、私の初期のアニメ体験は、ほとんどが教科書の余白に詰まっている。そんなふうだったので、テレビに『鉄腕アトム』が登場すると聞いたときには、ひどく興奮した。テレビがなかったので、近所の人にお願いして見せてもらった。そのころはもう、大学生だったけれど感動しましたよ。なにしろ、手塚さんの作り方も、まさにパラパラ漫画と原理は同じで、一枚一枚アトムの動きをセルに描いていたのですから……。そんなパラパラ漫画を素材にした掲句の作者の生年を見ると、私よりは二十年ほど若い人だった。秋の夜長に、パラパラと漫画の主人公を「踊らせて」いる人の姿を想像して、私は理屈抜きに素敵だなと思ってしまう。そして、こんな感想も「あり」という俳句にもまた。(清水哲男)


October 26102002

 あきくさをごつたにつかね供へけり

                           久保田万太郎

書に「友田恭介七回忌」とある。友田恭介は新劇の俳優だった。戦時中、友田夫人の女優・田村秋子らとともに、万太郎は文学座を結成する手筈だったが、友田の応召、そして戦死で、計画は宙に浮いた。すなわち盟友の七回忌というわけで、「ごつたにつかね(束ね)」の措辞に、作者万感の思いが込められている。「あきくさ(秋草)」は秋の草花や雑草の総称であり、むろん秋の七草も含まれているけれど、作者は草の名の有名無名を問わず、あえて「ごつたに(乱雑に)」混ぜ合わせて供えたのだ。友田にはこれがふさわしいと、いかにも親愛の情に溢れた供え方である。この供え方にはまた、有名無名などにとらわれず、生き残った我々は貴君が存命だったころと同じように、ひたすら良い舞台作りに専念していると、故人への近況報告も兼ねていると読める。そしておそらく「あきくさ」の「あき」は、墓前の田村秋子の「秋」にかけられているのだろう。残されているエピソードなどから推して、田村秋子は決して時流などには流されない強い芯を持っている人だったようだ。友田が戦死したとき、さっそく取材に訪れた新聞記者に、こう語ったという。「友田は役者ですから、舞台で死ぬのなら名誉だと思うし、本望だと思うけれど、全然商売違いのところで、あんな年取った者があんな殺され方をして、何が名誉なんでしょう。 『主人が名誉の戦死をしてとても本懐でございますと、健気に言った』なんて、絶対に書かないで下さい。『可哀そうで可哀そうで仕方がない』と言ったと書いて下さい」。『草の丈』所収。(清水哲男)


October 27102002

 頂上や殊に野菊の吹かれ居り

                           原 石鼎

んなに高い山の「頂上」ではない。詠まれたのは、現在は深吉野ハイキングコースの途中にある鳥見之霊時(とみのれいじ)趾あたりだったというから、丘の頂きといったところだろう。鳥見は神武天皇の遺跡とされている。秋風になびく草々のなかで、「殊(こと)に」野菊の揺れるさまが美しく目に写ったという情景。ひんやりとして心地よい風までもが、読者の肌にも感じられる。句は大正元年(1912年)の作で、当時は非常に斬新な句として称揚されたという。何故か。理由は「頂上や」の初五にあった。山本健吉の名解説がある。「初五の や留は、『春雨や』『秋風や』のような季語を置いても、『閑さや』『ありがたや』のような主観語を持ってきても、一句の中心をなすものとして感動の重さをになっている。それに対して『頂上や』はいかにも軽く、無造作に言い出した感じで、半ば切れながらも下の句につながっていく。その軽さが『居り』という軽い結びに呼応しているのだ。『殊に』というのも、いかにも素人くさい。物にこだわらない言い廻しである。そしてそれらを綜合して、この一句の持つ自由さ、しなやかさは、風にそよぐ野菊の風情にいかにも釣り合っている」。言い換えれば、石鼎はこのときに、名器しか乗せない立派な造りの朱塗りの盆である「や」に、ひょいとそこらへんの茶碗を乗せたのだった。だから、当時の俳人はあっと驚いたのである。いまどきの俳句では珍しくもない手法であるが、それはやはり石鼎のような開拓者がいたからこそだと思うと、この句がいまなお俳句史の朱塗りの盆に乗せられている意味が理解できる。『花影』(1937)所収。(清水哲男)


October 28102002

 冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁

                           北園克衛

語は「冬瓜」で秋。秋に実って冬場まで長持ちするので、この名がついたという。ずんぐりむっくりしていて、煮物にしたりするが、そのものの味は薄い。作者の北園克衛は、モダニズム詩の第一人者。出たばかりの「現代詩手帖」(2002年11月号)が、生誕百年を記念して特集を組んでいる。なかに、没後に藤富保男が編纂した句集『村』(1980)の話題があり、小澤實が紹介を兼ねた文章を寄せている。北園に俳句があることは仄聞していたけれど、原石鼎門であったことは、この特集ではじめて知った。石鼎の主宰誌「鹿火屋」には、ひところ毎号のように詩を書いていたそうだ。ところで、小澤氏は「庫裏(くり)」を本意のままに台所と読んでいるが、これは転じた意味での居間ないしは住居のほうだろう。すなわち「縁」は縁側であって、寺の縁側に、訪ねてきた人の「帽子」と「冬瓜」がぽつねんと置かれている。秋真昼、人影はない。ただ、それだけのことである。しかし、それだけのことが伝えてくるイメージは、いかにもこの国の寺に固有の雰囲気だ。おそらくはソフト帽であろう帽子からは訪問者の人品骨柄がうかがわれるので、傍らにある茫洋とした冬瓜からはミスマッチのとぼけた可笑しみが感じられる。そういえば、私たちの親しい寺にはどこか、こんな具合にいかめしくない情景がついてまわっている。作者は一流のデザイナーでもあったから、このような物の配置は得意中の得意だったと思う。主宰詩誌「VOU」のデザインも素敵だったなア。まだ木造だった新宿紀伊国屋書店で、私がいちばんはじめに買った詩誌が「VOU」であった。(清水哲男)


October 29102002

 月明の毘沙門坂を猪いそぐ

                           森 慎一

句碑
名的には正式な呼称ではないようだが、「毘沙門坂(びしゃもんざか)」は愛媛県松山市にある。松山城の鬼門にあたる東北の方角に、鎮めのために毘沙門天を祀ったことから、この名がついた。さて、掲句はおそらく子規の「牛行くや毘沙門坂の秋の暮」を受けたものだろう。写真(愛媛大学図書館のHPより借用)のように、現地には句碑が建っている。百年前の秋の日暮れ時に牛が行ったのであれば、月夜の晩には何が行ったのだろうか。そう空想して、作者は「猪(い・いのしし)」を歩かせてみた。子規の牛は暢気にゆっくり歩いているが、この句の猪はやけに早足だ。「い・いそぐ」の「い」の畳み掛けが、猪突猛進ほどではないが、そのスピードをおのずと物語っている。何を急いでいるのかは知らねども、誰もいない深夜の「月明」の坂をひた急ぐ猪の姿は、なるほど絵になる。さらに伊予松山には、狸伝説がこれでもかと言うくらいに多いことを知る人ならば、この猪サマのお通りを、狸たちが息を殺して暗い所からうかがっている様子も浮かんでくるだろう。月夜の晩は狸の専有時間みたいなものだけれど、猪がやって来たとなれば、一時撤退も止むを得ないところだ。いたずら好きの狸も、猪は生真面目すぎるので、苦手なのである。そんなことをいろいろと想像させられて、楽しい句だ。こういう空想句も、いいなあ。『風丁記』(2002)所収。(清水哲男)


October 30102002

 神無月主治医変はりてゐたりけり

                           秋本ひろし

語「神無月(かんなづき)」は陰暦十月の異称なので、冬に分類。今年は来週の火曜日、十一月五日が朔日にあたる。作者は、定期的に診察を受けている人だ。いつものように出かけていったら、主治医が変わっていた。前回の診察のときには、交替するなど聞いていないし、その気配すらなかったから、狐につままれたような気分だ。何かよほどの事情があっての、急な交替なのだろうか。が、新しい主治医に、根掘り葉掘り尋ねるわけにもいかない。私には経験がないけれど、長い間診てもらっていた医者が前触れもなしにいなくなるのは、かなり心細いことだろう。カルテは引き継がれても、蓄積された信頼の心や親愛感は引き継がれないからである。なんとなく釈然としない気持ちのままに診察が終わり、ふと今が「神無月」であることに気がついたのだった。まさか前任者を神のように崇めていたわけではないが、神様ですら忽然と不在になる月なのだからして、医者がひとり姿を消したとしても不思議ではないかもしれない……。とまあ、妙な納得をしているところが読ませる。とかく生真面目に重たく詠まれがちな神無月を、本意を歪めることなく軽妙に詠んでいて、しかもペーソスが滲み出ている。現代的俳諧の味とは、たとえばこういうものであろう。『棗』(2002)所収。(清水哲男)


October 31102002

 客われをじつと見る猫秋の宵

                           八木絵馬

句を読む楽しさの一つは、情景が描かれていない句の情景を想像することだ。たとえば掲句では、猫に「じつと」見つめられていることはわかるけれど、シチュエーションはわからない。どんなシーンでの句なのか。まず手がかりになるのは「客」だろう。しかし客にも二種類あって、他家を訪れているのか、それとも猫がいるような古くて小さな商店にでも入っているのか。どちらとも取れるし、どちらでもよい。だが、次なるキーワード「秋の宵」と重ねてみると、かなり輪郭がはっきりしてくると思う。そぞろ寒く侘しい雰囲気の宵……。となれば、古本屋だとか古道具屋のイメージが浮かんでくる。ふらりと入った小さな店には、他の客の姿はない。物色するともなく商品を眺めているうちに、ふと視線を感じた。こうした店の主人は客を「じつと」見ることはしないのが普通だから、いぶかしく思って視線の方角を見ると、こちらを注視している猫と目が合ったのである。見返しても、猫はいっこうに視線をそらさない。万引きでもしやしないかと見張られているようで、いやな感じだ。このときに「客われを」の「われを」に込められているのは、「こっちは客なんだぞ、失敬な」という気持ちだろう。それでなくとも侘しい秋の宵の気分が、猫のせいで、ますます侘しくなってしまった……。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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