このところ夜の会議疲れ。だんだん「どうでもいいじゃんか」の気分になってきます。




2002ソスN9ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1392002

 人間に寝る楽しみの夜長かな

                           青木月斗

の「夜長」。ようやく暑い夜の寝苦しさから解放されて、一晩通して眠れるようになった。この時期にこの句を読むと、はらわたに沁み入るようなリアリティを感じる。とくに会社勤めの人たちにとっては、そうだろう。私もサラリーマン時代には、寝る前にひとりでに「寝れば天国」とつぶやいていたものだった。若かったから、むろん寝ない楽しみもあったけれど、くたくたに疲れて眠る前の至福感もまた、格別だった。江戸期の狂歌に「世の中に寝るほど樂はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く」があり、これは昼間も寝ている怠け者の言い草を装っていながら、眠らないで頑張る人たちへの痛烈な風刺になっている。なぜ、そんなに頑張るのか。わずかな蓄財のために、親方に鼻面をひきまわされながらも頑張って、それでお前の一生はいいのかと辛辣だ。当時の私はこの狂歌を机の前に貼り付けて、何もかもぶん投げてしまいたいと切に願っていたが、ついにそういうことにできずに、今日まで来てしまった。大正から昭和初期にかけて活躍した作者は、大阪船場の商人で、貧乏人ではないし、諸般において給料取りの感覚とは隔たっていたろうが、秋の「夜長」を寝る楽しみとしたところを見ると、やはり「浮世の馬鹿」の一員として働いていたにちがいない。掲句は、豪放磊落の俳人といわれた月斗が、ふうっと深く吐いた吐息のような句だったと思える。『月斗翁句抄』(1950)所収。(清水哲男)


September 1292002

 新米のひかり纏いて炊きあがる

                           青木規子

 籾摺り
米が出回る季節になりました。配給制の時代とは違い、最近の気の利いたお米屋さんは、産地まで作柄を見に出かけて買い付けてきます。それも、刈り時の二、三日前までねばるのですから、まるで相場師ですね。スーパーの米は安いけれど、品質ではやはりそうした米屋の米に信頼が置けます。ところで、写真のこの道具をご存知でしょうか。私の子供の頃には、見たくもない物のひとつでしたが、いまや全国どこにもなくなってしまいました。精米するための道具です。稲を刈り、稲扱きで脱穀して籾にしてから、筵にひろげて天日に干して、それから精米をこの道具で行ったものでした。稲刈りや脱穀は大人の仕事でしたが、精米だけは力の無い子供にもできたので、ずいぶんとやらされましたね。手前の臼に籾を入れ、シーソー状の向こう側に人が立って、ギッタンバッコンと踏む仕掛けです。力はいらないかわりに、根気を要求されました。臼に入れる籾の量にもよりますが、写真から推察すると、これだと2000回以上は踏まなければならなかったでしょうね。一回踏むのに3秒としても、6000秒ですか。二時間近くは、ゆうにかかる計算になります。まことに単調退屈な仕事でしたが、これをやらないと飯にありつけないのが新米の季節……。というのも、我が家のような零細農家では、稲刈りの前には米の貯えが底をついていたものですから、とにかく白い飯食べたさに必死に踏んだことを覚えています。そして、こうして精米した米を炊くのも私の役目で、炊き上がったときの様子は、まさに掲句の通り。涙が出るほどに興奮しましたし、しかもその新米の美味いことといったら……。過ぎ去ってみれば、懐しくも楽しい思い出です。写真は「京の田舎民具館」で撮影し掲載しているここからトリミング縮小して借用しました。『新版・俳句歳時記』(2001・有山閣出版)所載。(清水哲男)


September 1192002

 敗荷のみな言ひ止しといふかたち

                           峯尾文世

語は「敗荷(やれはす・やれはちす・はいか・はいが)」で秋。台風などで、吹き破られた蓮の葉のこと。何か言いかけて途中で止めてしまうのが「言ひ止し(いいさし)」だが、破れた蓮の葉のかたちに、作者はそれらの葉の無念を見ている。そこが新鮮だ。句の葉の無念は、しかし、必ずしも第一に台風などのせいではないところを味わうべきだと思った。元来「言ひ止し」とは、自分の意志で物言いを止めてしまうことだから、まさか自分が台風などのせいで急に物が言えなくなるとは思ってもいなかったのに、思いがけない災難で、言いたいこともついに言えないままになってしまったのである。平たく言えば、我が身の物言わぬままの破滅は、楽天的に明日を信じたせいとも言えるのだ。そのことの無念だ。そして、そこここの蓮の葉が、みんなそうなってしまっているという無惨。だったら、元気なうちに言うべきことをちゃんと言っておけばよかったのに……。なんて発想が出るのは常に第三者からなのであり、第三者に同情されたところで、無念の「かたち」が修復されるわけじゃない。私たちは、いつだって「言ひ止し」の連続で生きているような存在だろう。そして、誰だっていつかは敗荷の身を生きて、死んでいくことになるのだろう。人の世とは、なんと理不尽なものか。と、作者は目の前の敗荷を見つめながら、いま、そう思いはじめたところである。『微香性』(2002)所収。(清水哲男)




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