ドジャースの石井が心配だ。順調に回復しているというが、恐怖感はなぎはらえるのか。




2002ソスN9ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1292002

 新米のひかり纏いて炊きあがる

                           青木規子

 籾摺り
米が出回る季節になりました。配給制の時代とは違い、最近の気の利いたお米屋さんは、産地まで作柄を見に出かけて買い付けてきます。それも、刈り時の二、三日前までねばるのですから、まるで相場師ですね。スーパーの米は安いけれど、品質ではやはりそうした米屋の米に信頼が置けます。ところで、写真のこの道具をご存知でしょうか。私の子供の頃には、見たくもない物のひとつでしたが、いまや全国どこにもなくなってしまいました。精米するための道具です。稲を刈り、稲扱きで脱穀して籾にしてから、筵にひろげて天日に干して、それから精米をこの道具で行ったものでした。稲刈りや脱穀は大人の仕事でしたが、精米だけは力の無い子供にもできたので、ずいぶんとやらされましたね。手前の臼に籾を入れ、シーソー状の向こう側に人が立って、ギッタンバッコンと踏む仕掛けです。力はいらないかわりに、根気を要求されました。臼に入れる籾の量にもよりますが、写真から推察すると、これだと2000回以上は踏まなければならなかったでしょうね。一回踏むのに3秒としても、6000秒ですか。二時間近くは、ゆうにかかる計算になります。まことに単調退屈な仕事でしたが、これをやらないと飯にありつけないのが新米の季節……。というのも、我が家のような零細農家では、稲刈りの前には米の貯えが底をついていたものですから、とにかく白い飯食べたさに必死に踏んだことを覚えています。そして、こうして精米した米を炊くのも私の役目で、炊き上がったときの様子は、まさに掲句の通り。涙が出るほどに興奮しましたし、しかもその新米の美味いことといったら……。過ぎ去ってみれば、懐しくも楽しい思い出です。写真は「京の田舎民具館」で撮影し掲載しているここからトリミング縮小して借用しました。『新版・俳句歳時記』(2001・有山閣出版)所載。(清水哲男)


September 1192002

 敗荷のみな言ひ止しといふかたち

                           峯尾文世

語は「敗荷(やれはす・やれはちす・はいか・はいが)」で秋。台風などで、吹き破られた蓮の葉のこと。何か言いかけて途中で止めてしまうのが「言ひ止し(いいさし)」だが、破れた蓮の葉のかたちに、作者はそれらの葉の無念を見ている。そこが新鮮だ。句の葉の無念は、しかし、必ずしも第一に台風などのせいではないところを味わうべきだと思った。元来「言ひ止し」とは、自分の意志で物言いを止めてしまうことだから、まさか自分が台風などのせいで急に物が言えなくなるとは思ってもいなかったのに、思いがけない災難で、言いたいこともついに言えないままになってしまったのである。平たく言えば、我が身の物言わぬままの破滅は、楽天的に明日を信じたせいとも言えるのだ。そのことの無念だ。そして、そこここの蓮の葉が、みんなそうなってしまっているという無惨。だったら、元気なうちに言うべきことをちゃんと言っておけばよかったのに……。なんて発想が出るのは常に第三者からなのであり、第三者に同情されたところで、無念の「かたち」が修復されるわけじゃない。私たちは、いつだって「言ひ止し」の連続で生きているような存在だろう。そして、誰だっていつかは敗荷の身を生きて、死んでいくことになるのだろう。人の世とは、なんと理不尽なものか。と、作者は目の前の敗荷を見つめながら、いま、そう思いはじめたところである。『微香性』(2002)所収。(清水哲男)


September 1092002

 秋蝶の一頭砂場に降りたちぬ

                           麻里伊

の蝶は姿も弱々しく、飛び方にも力がない。「ますぐには飛びゆきがたし秋の蝶」(阿波野青畝)。そんな蝶が「砂場」に降りたった。目を引くのは「一頭」という数詞だ。慣習的に、蝶は一頭二頭と数えるが、この場合には、なんと読むのか(呉音ではズ、唐音ではチョウ・チュウ[広辞苑第五版])。理詰めに俳句としての音数からいくと「いちず」だろうが、普通に牛馬などを数えるときの「いっとう」も捨てがたい。というのも、枝葉や花にとまった蝶とは違い、砂場に降りた蝶の姿はひどく生々しいからだ。蝶にしてみれば、砂漠にでも降りてしまった気分だろう。もはや軽やかに飛ぶ力が失せ、かろうじて墜落に抗して、ともかくも砂場に着地した。人間ならば激しく肩で息をする状態だ。このときに目立つのは、蝶の羽ではなくて、消えゆく命そのものである。消えゆく命は蝶の「頭」に凝縮されて見えるのであり、ここに「一匹」などではなく「いちず」の必然性があるわけだが、しかし全体の生々しさには「いっとう」と呼んで差し支えないほどの存在感がある。作者が「いちず」とも「いっとう」ともルビを振らなかったのは、その両方の意を込めたかったからではなかろうか。やがて死ぬけしきを詠むというときに、この「一頭」は動かせない。『水は水へ』(2002)所収。(清水哲男)




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