私は意地悪だ。貴乃花の没落ぶりへの関心。それをオクビにも出さない意地悪もいるね。




2002ソスN9ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1092002

 秋蝶の一頭砂場に降りたちぬ

                           麻里伊

の蝶は姿も弱々しく、飛び方にも力がない。「ますぐには飛びゆきがたし秋の蝶」(阿波野青畝)。そんな蝶が「砂場」に降りたった。目を引くのは「一頭」という数詞だ。慣習的に、蝶は一頭二頭と数えるが、この場合には、なんと読むのか(呉音ではズ、唐音ではチョウ・チュウ[広辞苑第五版])。理詰めに俳句としての音数からいくと「いちず」だろうが、普通に牛馬などを数えるときの「いっとう」も捨てがたい。というのも、枝葉や花にとまった蝶とは違い、砂場に降りた蝶の姿はひどく生々しいからだ。蝶にしてみれば、砂漠にでも降りてしまった気分だろう。もはや軽やかに飛ぶ力が失せ、かろうじて墜落に抗して、ともかくも砂場に着地した。人間ならば激しく肩で息をする状態だ。このときに目立つのは、蝶の羽ではなくて、消えゆく命そのものである。消えゆく命は蝶の「頭」に凝縮されて見えるのであり、ここに「一匹」などではなく「いちず」の必然性があるわけだが、しかし全体の生々しさには「いっとう」と呼んで差し支えないほどの存在感がある。作者が「いちず」とも「いっとう」ともルビを振らなかったのは、その両方の意を込めたかったからではなかろうか。やがて死ぬけしきを詠むというときに、この「一頭」は動かせない。『水は水へ』(2002)所収。(清水哲男)


September 0992002

 玉錦塩を掴んで雪のように

                           野田別天樓

撲(秋の季語)の句。実際に本場所を見たのは、後にも先にも一度しかない。いまの貴乃花の父親が、大関を張っていたころだ。偶然にも天覧試合だったので、昭和天皇を見たのも、あのときだけだった。相撲の句というと、たいていが勝負に関わるものや年取った角力取りの哀感を詠んだものが多いなかで、このように絶好調の力士の姿を誉めた句は少ない。玉錦は昭和初期の横綱だから、私にはその勇姿を知る由もないけれど、きっと句のように「雪のように」美しい姿だったにちがいない。男も惚れる美丈夫だ。土俵に上がり塩を掴んだ姿も、勝敗を越えた角力見物の楽しさであることは、たった一度の観戦でもよくわかった。あの微妙な肌の色、取り組んだ後に背に昇ってくる血の色……。こういうところは、残念ながらテレビでは見えない。野球でもサッカーでも、現場でしか見られないものは、数多くある。さて、作者の師匠である松瀬青々には「角力取若く破竹の名を成せり」がある。昨日の八場所ぶりの貴乃花は、まさにこの句のように力量名声をほしいままにしてきた力士であるが、みなさまはどうご覧になっただろうか。必死の気迫は感じられた。が、素人考えながら、新小結にすぐに上手を切られるなど、前途は楽観できない内容だなと思えた。(清水哲男)


September 0892002

 父も子も音痴や野面夕焼けて

                           伊丹三樹彦

に「夕焼」といえば夏だが、句のそれは「秋夕焼」でも似合う。夏ならば、親子していつまでも歌っている光景。秋ならば、ちょっと歌ってみて、どちらからともなく止めてしまう光景。いずれも、捨てがたい。思いがけないところで、血筋に気がつく面白さ。こういうことは、誰にでも起きる。ところで、いったい「音痴」とは何だろうか。私は音痴と言われたことはないけれど、しかし、自分が微妙に音痴であることを知っている。頭ではわかっていても、決まって思うように発声できない音がある。小学館の電子百科辞典で、引いてみた。「音楽が不得意であること、またそのような人に対して軽蔑や謙遜の意味を込めていう俗語。大正初期の一高生による造語か。(中略)病理学的には感覚性音痴と運動性音痴が区別される。前者は音高、拍子、リズム、音量などを聞き分ける能力がない、または不完全なものをさし、後者はそのような感覚はあっても、いざ歌うとなると正しく表出できないものをさす。これらは大脳の先天的音楽機能不全であるとする説もあるが、環境の変化や訓練によって変わるし、しかも幼少時期にとくに変わりやすいので、むしろ後天的な要因のほうが大きいと思われる。とすれば、ある社会のなかで音痴といわれる人も別な社会に行けば音痴でないこともありうることになる。とくに軽症の場合は心因性のことが多いので、劣等感を取り除くべく練習を重ねれば文化に応じた音楽性が身につく。身体発育の段階によっては、声域異常や嗄声(させい・しゃがれ声)などの音声障害のため音痴と誤解されることもあるが、楽器の操作は正しくできることもある。音楽能力が以前にはあったのに疾病により音痴となった場合のことを失音楽症という。〈山口修〉」。この解説に従えば、私の場合は「運動性音痴」に当てはまる。これはしかし、どう考えても後天的ではなさそうだ。『人中』所収。(清水哲男)




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