小泉金会談。既に手土産は決まっているはず。先方からは竜宮の玉手箱じゃあるまいね。




2002ソスN9ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0192002

 撫で殺す何をはじめの野分かな

                           三橋敏雄

日は、立春から数えて二百十日目。このころに吹く強い風が「野分(のわき・のわけ)」だ。ちょうど稲の開花期にあたるので、農民はこの日を恐れて厄日としてきた。「二百十日」も「厄日」も季語である。さて、句の「撫で殺す」は造語だろうが、「誉め殺し」などに通じる使い方だ。誉めまくって相手を駄目にするように、撫でまくることで、ついには相手をなぎ倒してしまうのである。強風は、いきなり最初から強く吹くのではない。「何をはじめ(きっかけ)」とするかわからないほどに、ひそやかな風として誕生するわけだ。だから、最初のうちは万物を撫でるように優しく吹くのであるが、それが徐々に風速を増してきて、やがては手に負えないほどの撫で方にまで生長してしまう。まったく「何をはじめ」として、かくのごとくに風が荒れ狂い、野のものを「撫で殺す」にいたったのか。ここで作者はおそらく、野分に重ね合わせてみずからの御しがたい心の状態を思っている。たとえば、殺意だ。はじめは優しく撫でていた気分が、いつの間にか逆上していき、相手を押しのめしたくなるそれに変わってしまうことがある。この不可解さは、すなわち「何をはじめの狂気かな」とでも言うしかない性質のものだろう。『眞神』(1973)所収。(清水哲男)


August 3182002

 かなかなや故郷は風の沙汰なりし

                           細谷てる子

語は「かなかな」で秋、「蜩(ひぐらし)」とも。あの鳴き声には、郷愁や旅愁を誘われる。わけもなく、センチメンタルな気分になる。いま、ここで「かなかな」が鳴いているように、「故郷」でも鳴いていた。この刻にも、同じように鳴いているだろう。その故郷を離れてから、ずいぶんと久しい。疎遠になった。誰かれの消息も、もはや「風の沙汰(便り)」にぼんやりと聞こえてくるくらいだ。そんな思いをめぐらしているうちに、作者には故郷そのものが幻だったようにすら思えてきたのだ。あの土地で生まれ育ったなんて、実際にはなかったことなのではあるまいか。いや、きっとそうなのだろう。と、だんだん「かなかな」の声が高まってくるにつれ、幻性も高まってくる。「風の沙汰なりし」と止めたのは、たとえば「風の沙汰となり」と押さえるのとは違って、故郷それ自体を風の便りの中身みたいにあやふやな存在として掴んでいるからだ。古来「かなかな」の句はたくさん詠まれてきたが、ちょっとした抒情の味付け的役割を担わされている場合が大半であり、その点で掲句は異彩を放っていると印象づけられた。故郷は遠くにありて、ついに幻と化したのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 3082002

 酔眼の夜を一本の捕虫網

                           寺井谷子

語は「捕虫網」で夏。子供たちの夏休みも、もうすぐお終いだ。休みの間振り回した捕虫網の出番も、ぐんと減ってしまう。もっともこれは昔の話で、いまの宿題には昆虫採集など出ないだろう。少なくとも、都会地では無理難題だから……。いささか酔った作者は、帰宅のために夜道を歩いている。ふと前方に、なにやら白いものがゆらゆらと浮かびながら進んでいるのに目がとまった。なんだろうか。目を凝らして見ようとするのだが、酔眼ゆえか、はっきりとしない。まさか人魂の類ではないとしてなどと、しきりに思いをめぐらすうちに、はたと「捕虫網」であることに気がついたのである。真っ暗な夜道だから、持っている人の姿は見えない。白い網だけが、ただ揺れながら漂っている。酔眼のなかに、真っ白くくっきりとしたものが動いている図は、想像するだに幻想的だ。季節的には夏の盛りというよりも、晩夏の幻想世界としたほうが似合うだろう。こういう情景ともしばしお別れかと、逝く夏を惜しむ気持ちも重なって、いよいよ前を行く真っ白いものが鮮明さを増してくるようだ。『笑窪』(1986)所収。(清水哲男)




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