八月尽。一年の三分の二が終わる。いや、まだ三分の一も残っている。これが焦りの証拠。




2002ソスN8ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 3182002

 かなかなや故郷は風の沙汰なりし

                           細谷てる子

語は「かなかな」で秋、「蜩(ひぐらし)」とも。あの鳴き声には、郷愁や旅愁を誘われる。わけもなく、センチメンタルな気分になる。いま、ここで「かなかな」が鳴いているように、「故郷」でも鳴いていた。この刻にも、同じように鳴いているだろう。その故郷を離れてから、ずいぶんと久しい。疎遠になった。誰かれの消息も、もはや「風の沙汰(便り)」にぼんやりと聞こえてくるくらいだ。そんな思いをめぐらしているうちに、作者には故郷そのものが幻だったようにすら思えてきたのだ。あの土地で生まれ育ったなんて、実際にはなかったことなのではあるまいか。いや、きっとそうなのだろう。と、だんだん「かなかな」の声が高まってくるにつれ、幻性も高まってくる。「風の沙汰なりし」と止めたのは、たとえば「風の沙汰となり」と押さえるのとは違って、故郷それ自体を風の便りの中身みたいにあやふやな存在として掴んでいるからだ。古来「かなかな」の句はたくさん詠まれてきたが、ちょっとした抒情の味付け的役割を担わされている場合が大半であり、その点で掲句は異彩を放っていると印象づけられた。故郷は遠くにありて、ついに幻と化したのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 3082002

 酔眼の夜を一本の捕虫網

                           寺井谷子

語は「捕虫網」で夏。子供たちの夏休みも、もうすぐお終いだ。休みの間振り回した捕虫網の出番も、ぐんと減ってしまう。もっともこれは昔の話で、いまの宿題には昆虫採集など出ないだろう。少なくとも、都会地では無理難題だから……。いささか酔った作者は、帰宅のために夜道を歩いている。ふと前方に、なにやら白いものがゆらゆらと浮かびながら進んでいるのに目がとまった。なんだろうか。目を凝らして見ようとするのだが、酔眼ゆえか、はっきりとしない。まさか人魂の類ではないとしてなどと、しきりに思いをめぐらすうちに、はたと「捕虫網」であることに気がついたのである。真っ暗な夜道だから、持っている人の姿は見えない。白い網だけが、ただ揺れながら漂っている。酔眼のなかに、真っ白くくっきりとしたものが動いている図は、想像するだに幻想的だ。季節的には夏の盛りというよりも、晩夏の幻想世界としたほうが似合うだろう。こういう情景ともしばしお別れかと、逝く夏を惜しむ気持ちも重なって、いよいよ前を行く真っ白いものが鮮明さを増してくるようだ。『笑窪』(1986)所収。(清水哲男)


August 2982002

 俳優は待つのも仕事秋扇

                           小倉一郎

語はもちろん「秋扇(あきおうぎ)」だが、こういう季語があるところにも、俳句の面白さがある。プロの俳人諸氏は不感症になっているかもしれないけれど、初心者にはハッとさせられる新鮮な季語だろう。日常一般には使わない言葉だとしても、たしかに「秋扇」としか言いようのない扇のあり方がある。朝方は涼しくても、昼間は暑くなるかもしれないと、用心のためにバッグにしのばせて出かけたりする。私などは、この時期の「夜の」野球見物にすら、必ず鞄に入れて持参する。立派な扇子などではなくて、宣伝に貰ったダサい団扇だけれど(笑)。役に立とうが立つまいが、とりあえず安心のために持っていく。物それ自体としては何の変哲もないのに、秋という季節の言葉をかぶせることによって、誰にでも思い当たる「扇」のありようが、忽然として出現してくるという季語だ。敷衍して、もっと涼しくなってきたときの忘れ去られた扇のことも言う。だから、女性を詠み込む句には、間違っても「秋扇」を使ってはいけないと、誰かに教えられたことがあった。句の作者は、映画かテレビのロケ現場で、とにかく出番を待っている。暑い日になり、持参した扇が役に立っているのだ。それはそれでよいとして、待てどもいっこうに出番がまわってこないことに苛々している。もしかすると、忘れられちゃったのではないのか。すなわち「秋扇」のように……。この句で思い出したことがある。若き日の編集者時代に、紅茶一杯で、私を十二時間も待たせてくれた有名女性作家がいたことを、ね。「待つのも仕事」。小倉さん、あのときにしみじみと私も、そう思ったことでした。小倉一郎句集『俳・俳』(2000)所収。(清水哲男)




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