鞄に見慣れぬティッシュ。大阪のタクシーでもらったものだった。東京ではくれません。




2002ソスN8ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2982002

 俳優は待つのも仕事秋扇

                           小倉一郎

語はもちろん「秋扇(あきおうぎ)」だが、こういう季語があるところにも、俳句の面白さがある。プロの俳人諸氏は不感症になっているかもしれないけれど、初心者にはハッとさせられる新鮮な季語だろう。日常一般には使わない言葉だとしても、たしかに「秋扇」としか言いようのない扇のあり方がある。朝方は涼しくても、昼間は暑くなるかもしれないと、用心のためにバッグにしのばせて出かけたりする。私などは、この時期の「夜の」野球見物にすら、必ず鞄に入れて持参する。立派な扇子などではなくて、宣伝に貰ったダサい団扇だけれど(笑)。役に立とうが立つまいが、とりあえず安心のために持っていく。物それ自体としては何の変哲もないのに、秋という季節の言葉をかぶせることによって、誰にでも思い当たる「扇」のありようが、忽然として出現してくるという季語だ。敷衍して、もっと涼しくなってきたときの忘れ去られた扇のことも言う。だから、女性を詠み込む句には、間違っても「秋扇」を使ってはいけないと、誰かに教えられたことがあった。句の作者は、映画かテレビのロケ現場で、とにかく出番を待っている。暑い日になり、持参した扇が役に立っているのだ。それはそれでよいとして、待てどもいっこうに出番がまわってこないことに苛々している。もしかすると、忘れられちゃったのではないのか。すなわち「秋扇」のように……。この句で思い出したことがある。若き日の編集者時代に、紅茶一杯で、私を十二時間も待たせてくれた有名女性作家がいたことを、ね。「待つのも仕事」。小倉さん、あのときにしみじみと私も、そう思ったことでした。小倉一郎句集『俳・俳』(2000)所収。(清水哲男)


August 2882002

 吹き起こる秋風鶴をあゆましむ

                           石田波郷

波郷句碑
正な句だ。元来が、「鶴」という鳥には気品が感じられる。その鶴を「吹き起こる秋風」のなかに飛ばすのではなく、地に「あゆま」せることによって、気品はいよいよ高まっている。毅然たる姿が目に浮かぶ。「鶴」は波郷の主宰誌の名前でもあり、その出立に際しての意気が詠み込まれている。自然に吹き起こる秋風のような、我らの俳句活動への熱情。やがては大空へ飛翔する鶴を、いま静かに野に放ち歩ませたのである。ところで、句の「秋風」はどう発音するのだろうか。私は、なんとはなしに「シュウフウ」と読んできた。「アキカゼ」よりも荘重な感じがするからである。しかし、さきごろ藤田湘子さんから『句帖の余白』(角川書店)を送っていただき、次の一文に触れて、波郷の本意を思いやれば「アキカゼ」と読むべきだと思った。「この句は昭和十二年作。この年『鶴』を創刊したからそのことと関連づけて観賞されている。事実、そうである。したがって新雑誌を持つ、そこを活動の場として俳句運動を展開する、という晴ればれとした気概が波郷には漲っていたにちがいない。そうした雄ごころの表現にはアキカゼの開かれた明快な韻がふさわしい。一部の人はこの年日中戦争が始まって前途への暗いおもいがあったから、荘重な調べのシュウフウのほうがいい、と言う。けれども当時はまだ戦争による逼迫感はほとんどなかった。新雑誌発行の意気込みのほうがずっとつよかったはずだ」。こう読むと、鶴の歩みはよほど軽やかに見えてくる。写真は、東京調布市の深大寺開山堂横にある句碑。碑の姿と漢字の多用(掲句は何通りかの表記で伝えられてきた)からして、製作者は「シュウフウ」と読ませたがっているようだ。『石田波郷全集』(角川書店)所収。(清水哲男)


August 2782002

 ある晴れた日につばくらめかへりけり

                           安住 敦

語は「燕帰る」で秋。この季節になると、「つばくらめ(燕)」たちはいつの間にか次々といなくなってしまう。軒端に、空っぽの巣が残される。きっと「ある晴れた日」を選んで、遠い南の島に渡っていったのだろうと、作者は納得している。実際には、どんな天候の日に姿を消したのかはわからない。わからないけれど、それを晴れた日と思いたい作者の心根は、かぎりなく優しい。こういう句に出会うと、ホッとさせられる。この句を読んで思い出した童謡に、野口雨情の「木の葉のお船」がある。「帰る燕は 木の葉のお船ネ 波にゆられりゃ お船はゆれるネ サ ゆれるね」。雨情もまことに心優しく、ずうっと飛んでいかせるのは可哀想だと、そっと船に乗せてやっている。身体が小さいので、木の葉のお船に……。ところで季語の「燕帰る」だが、彼らは日本で生まれるので、本当は「帰る」のではない。と、こういうことにうるさい(失礼、厳密な)俳人は「燕去る」と使ってきた。後者が正しいに決まっているが、でも、「帰る」としたほうが、燕に対しては優しい言い方のような気がする。彼らが渡って行く先には、ちゃんと「家」が待っているのだと想像すれば、心がなごむ。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます