August 162002
精霊舟草にかくるる舟路あり米沢吾亦紅季語は「精霊舟(しょうりょうぶね)」で秋。送り盆の行事の終わりに、供え物を流すときの舟。多くの歳時記には真菰(まこも)や麦わらで作ると書かれているが、私の故郷(山口県)の旧家あたりでは木造だった。盆が近づいてくると、農作業のひまをみては、少しずつ作り上げていく。立派なのになると、大人が両手でやっと抱えられるほどの大きさだ。本番で転覆しないように、慎重に何度もテストを重ねる。テストは昼間だったので、よく見にいった。我が家は分家で墓がないため、盆とは無縁だったけれど、むろんそのほうがよいに決まっているが、この舟だけは単純に欲しかった。「ウチにもハカがあったらなあ……」などと、ふとどきな妄想を抱きつつ、テストを見ていたものだ。さて、本番の夜。小学校の校庭での盆踊りが終わると、舟たちの出番がやってくる。学校から道一つ隔てた川にみんなで集まり、腰まで水につかった若い衆が、一つ一つ舟や燈籠を受け取っては流していく。さきほどまでの盆踊りの喧騒が嘘のように静まり、誰もが無言で川面を行くものを眺めていた。なかにはすぐに岸辺にひっかかるのもあり、若い衆が長い竹竿で「舟路」に戻してやっていた。句のように、やがて「草にかくるる」舟路だったから、儀式には一時間もかからなかったと思う。終わると、真っ暗な道を大人たちはどこかに飲みに行き、子供は寝るために家に戻った。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男) August 152002 終戦日ノモンハン耳鳴りけふも診る佐竹 泰敗戦の日がめぐってきた。今日という日に思うことは、どれをとっても心に重い。その思いを数々の人が語り書きついできており、俳句の数だけでも膨大である。歳時記のページを開くと、一句一句の前で立ち止まることになる。そんなページに掲句を見つけて、はっとした。もしかすると、この句の情景は終戦日当日のそれであったのかもしれないと思ったからだ。むろん当日には「終戦日」という季語はないのだから、実際には何年かを経て詠まれたのだろう。が、詠んだ情景が戦争に敗けた日のことだとするならば、より感動は深まる。あの日は正午から玉音放送があるというので、仕事どころではなかった人が大半だったはずだ。しかし一方で、仕事を休むわけにはいかない人々もいた。作者のような医者も、その一人だ。世の中に何が起きようとも、待っている患者がいるかぎり、診察室を閉じるわけにはいかない。だから、この日もいつものように診察したのである。しかも患者は、ノモンハン参戦で耳鳴りが止まらなくなった人だ。難聴の人にとって、玉音放送などは無縁である。ノモンハン事件は、1939年(昭和十四年)5月から9月にかけて、満州(中国東北)とモンゴルの国境ノモンハンで起こった日ソ両軍の国境紛争だった。日本は関東軍1万5千名を動員したが、8月ソ連空軍・機械化部隊の反撃によって壊滅的打撃を受けた。事件から六年を経て、なおこの人は後遺症に苦しんでいたことになる。さりげない句のようだが、戦争の悲惨を低い声でしっかりと告発している。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男) August 142002 樟脳舟しやうなう尽きてしまひけり菊田一平無
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