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2002ソスN8ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0782002

 百日草がんこにがんこに住んでいる

                           坪内稔典

語は「百日草」で夏。メキシコ原産。その名のとおり、うんざりするほどに花期が長い。栽培も容易で生育も早く、しかもしぶといときているから、江戸期より園芸用として広まったのもうなずける。掲句は花の観賞ではなく、そうした生態のみに着目して「がんこにがんこに」と繰り返した。句の妙は「住んでいる」の切り返しにある。読み下していく途中、読者は最初の「がんこに」のあたりで、なんとなく「咲いている」などと下五を予想してしまう。次の「がんこに」で、ますますそのイメージが強固になる。そこまで仕組んでおいてから、作者はさっと梯子を外すようにして「住んでいる」と切り換えた。ここで一瞬、読者に句の主体を見失わせるわけだ。すなわち「がんこにがんこに」は百日草の生態にもかかっているが、咲かせている家の人の生き方にこそ大きな比重がかけられていたのだった。やられた。やられたのだけれど、しかし、悪い気はしない。そこで、もう一度読んでみると、なるほどと納得がいく。地味ながら頑固一徹に生きている主人公の姿すら、思い浮かべられるようだ。こういうことにかけては、やはり当代一流の作者なのである。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 0682002

 かくらんに町医ひた待つ草家かな

                           杉田久女

語は「かくらん(霍乱)」で夏。暑気中りが原因で起きる病気の総称である。現在では日射病などの熱中症を指す場合が多いが、古くは命にかかわるようなコレラやチフスの重病も含めていたようだ。よく言われる「鬼の霍乱」は、重病のケースだろう。句意は明瞭。家族の誰かが急に具合が悪くなり、あまりに苦しそうなので、町から医者に来てもらうことにした。病人を励ましながら、医者を待つ時間の何と長くて暑く、心細くもいらいらさせられることか。「町」と「草家」の対比で、作者の家が町から遠い場所にあることが知れる。いまならば確実に救急車を呼ぶところだが、昔の村などではみな、こうしてじいっと医者が来るまで「ひた待つ」しかなかった。そのうちに、やっと看護婦を従えた医者が到着する。あれは不思議なもので、医者が到着するだけで家内の雰囲気がぱっと明るくなり、病人も安堵するので、もう半分くらいは治ったような気持ちになるものだ。少年時代の私も、病人としてその雰囲気を体験したことがある。「助かった」と、心底思ったことであった。久女に、もう一句。「かくらんやまぶた凹みて寝入る母」。しかるべき処置をして、医者が帰っていった後の句だろう。やつれてはいるけれど、すっかり安心して、静かに寝入っている母よ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0582002

 少年に夢ジキタリス咲きのぼる

                           河野南畦

ジキタリス
語は「ジキタリス(ジギタリス)」で夏、花の形から「きつねのてぶくろ(英名・fox glove)」とも。子供の背丈くらいに花序が伸び、グラジオラスと同じように下から上へと順に咲いていく。したがって、掲句の作者は「少年」の上昇志向の「夢」と結びつけたわけだ。そういうことから言えば、類想句も多そうだけれど、そんなことは私にはどうでもよろしい。作者の心持ちは、少年時代をひたすらに懐かしんでいるのであり、ただそれだけであり、そのべたべたの感傷が私のそれにつながるのであり、それでよいのである。なあんて、急に力瘤を入れることもないのだが、句はまさに私の少年時代の庭に咲いていたジキタリスと夢とを鮮明に思い出させてくれたので、いささか興奮させられたのだった。そうなんだよねえ、そうだったなあ……。頭がくらくらするほどの灼熱の日々にあって、さして力強い姿でもなく、かといってひ弱なそれでもなく、淡々と上へ上へと開花してゆくジキタリス。それを見るともなく見ていた少年の日々の一夏の夢のおおかたは、のぼりつめた花の終わりとともに消えていくのだった。人には、このような批評文にも観賞文にも値しない表現でしか言い表せない共感(逆の「反感」も)という心の働きがある。なかで、センチメンタリズムへの共感が、その最たるものだろう。見渡せば、くどくどしく物の言えない俳句のみが、そんなセンチメンタリズムをとても大切にしている。写真は京都植物園HPより部分借用しました。『俳句の花・下巻』(1997)所載。(清水哲男)




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