土肥あき子句集出版記念会。句集の出版記念会は生まれてはじめてだ。緊張するなあ…。




2002ソスN8ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0382002

 貰ひ来る茶碗の中の金魚かな

                           内藤鳴雪

雪は子規門。「めいせつ」と読ませるが、「ナリユキにまかせる」の意を込めたと言うからとぼけている。二葉亭四迷(クタバッテシメエ)の類なり。さて、掲句は子供のころの思い出を詠んだものだと思う。一読、何の変哲もないようだけれど、金魚を入れた茶碗の手触りまでが伝わってくる句だ。こぼさないように慎重に、そろそろと歩きながら見つめる金魚の姿も鮮やかである。いまだったら、ビニール袋にでも入れるところだけれど、明治期にそんな便利なものはない。他に何か適当な入れ物はなかったのかと想像してみたのだが、思いつかなかった。たとえば手桶などに入れたほうが心配はないが、手桶だと、また返してもらわなければならない。入れ物ごと進呈するには、やはり安茶碗か使い古しの茶碗くらいしかなかったのだろう。しかし、私が子供だったころにも、釣り餌用のミミズを欠け茶碗に入れたりしたけれど、最初に入れるときにはかなりの抵抗感があった。同じような違和感が、作者の気持ちのなかにも流れていたはずである。したがって、句の主役は「金魚」そのものではなくて、あくまでも「茶碗の中の金魚」でなければならない。暑い夏の日の昼下がり、汗だくのこの子は、無事に家まで戻れたろうか。「つづき」が気になる。『鳴雪句集』(1909)所収。(清水哲男)


August 0282002

 妻留守の完熟トマト真二つに

                           山中正己

子厨房に入るの図。夏の旅行か何かで、妻が家を空けている。トマトは、妻が買って置いておいたものだろう。日数を経て「完熟」してしまっている。柔らかくなっているので、もはやスライスできないのだ。ええいっママよと、乱暴に「真二つに」切って食べることにしたと言うのである。こういうことを句にする人は何歳くらいだろうかと、略歴を見たら、私より一歳年上の同世代人であった。さもありなん……。思わず、ニヤリとしてしまった。日ごろ台所のことを何もしていないので、妻が留守をすると、食事のたびに面倒くさくて仕方がないのだ。句にそくして言えば、ちょっと近所まで新しいトマトを仕入れに行けばよいものを、それからして面倒なのである。冷蔵庫などに食べられるものが残っている間は、不味かろうが何だろうが、それですませてしまう。無精もここに極まれり、というわけだ。もっとも、なかには詩人の天沢退二郎さんのように、毎朝娘さんの弁当を作ってきたという料理好きの人も、同世代には散見されるので、この無精を世代のせいだけにしてはいけないのかもしれないが。そう言えば、原石鼎に「向日葵や腹減れば炊くひとり者」があった。世代やシチュエーションは違っていても、石鼎も作者も、食事とはとりあえず空腹を満たすことと心得ている。この夏にも、完熟トマトを真二つにする男たちは、まだまだ多いだろう。『キリンの眼』(2002)所収。(清水哲男)


August 0182002

 若竹の冷え伝ふなり真昼の手

                           櫛原希伊子

語は「若竹」で夏、「今年竹」とも。皮を脱いで生長した今年の竹は幹の緑が若々しく、加えて節の下に蝋質の白い粉を吹いているので、すぐにわかる。竹林は、昼なお薄暗く、そして涼しい。作者は、若々しいその竹に、そっと手を触れてみた。思わずも、吸い寄せられるように、であろう。ひんやりとした感触……。しかしその「冷え」は、脈々と息づいている生命の確かさにつながっていることがわかる。冷たい健やかさというものもあるのだ。この発見に、私は作者とともに感動する。「若竹の肌は、私の手を伝わって何を言いたかったのか。私はどう感じとればよかったのか」(自註)。自然との触れ合いのなかでは、必ず言葉に尽くせない思いが残る。そういうことも、この句は見事に告げている。同じ作者による「今年竹」の句も引用しておく。こちらは、実に爽快だ。「男ゐて雲ひとつなし今年竹」。真っ青な空に向かってすっくと伸びた若い竹が「男」の姿とダブル・イメージとなっており、しかもそれぞれの輪郭がはっきりとしている気持ちの良さがある。「こうあって欲しいと思う男のイメージ」を詠んだのだと、これも自註より。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)




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