August 012002
若竹の冷え伝ふなり真昼の手櫛原希伊子季語は「若竹」で夏、「今年竹」とも。皮を脱いで生長した今年の竹は幹の緑が若々しく、加えて節の下に蝋質の白い粉を吹いているので、すぐにわかる。竹林は、昼なお薄暗く、そして涼しい。作者は、若々しいその竹に、そっと手を触れてみた。思わずも、吸い寄せられるように、であろう。ひんやりとした感触……。しかしその「冷え」は、脈々と息づいている生命の確かさにつながっていることがわかる。冷たい健やかさというものもあるのだ。この発見に、私は作者とともに感動する。「若竹の肌は、私の手を伝わって何を言いたかったのか。私はどう感じとればよかったのか」(自註)。自然との触れ合いのなかでは、必ず言葉に尽くせない思いが残る。そういうことも、この句は見事に告げている。同じ作者による「今年竹」の句も引用しておく。こちらは、実に爽快だ。「男ゐて雲ひとつなし今年竹」。真っ青な空に向かってすっくと伸びた若い竹が「男」の姿とダブル・イメージとなっており、しかもそれぞれの輪郭がはっきりとしている気持ちの良さがある。「こうあって欲しいと思う男のイメージ」を詠んだのだと、これも自註より。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男) August 022002 妻留守の完熟トマト真二つに山中正己男子厨房に入るの図。夏の旅行か何かで、妻が家を空けている。トマトは、妻が買って置いておいたものだろう。日数を経て「完熟」してしまっている。柔らかくなっているので、もはやスライスできないのだ。ええいっママよと、乱暴に「真二つに」切って食べることにしたと言うのである。こういうことを句にする人は何歳くらいだろうかと、略歴を見たら、私より一歳年上の同世代人であった。さもありなん……。思わず、ニヤリとしてしまった。日ごろ台所のことを何もしていないので、妻が留守をすると、食事のたびに面倒くさくて仕方がないのだ。句にそくして言えば、ちょっと近所まで新しいトマトを仕入れに行けばよいものを、それからして面倒なのである。冷蔵庫などに食べられるものが残っている間は、不味かろうが何だろうが、それですませてしまう。無精もここに極まれり、というわけだ。もっとも、なかには詩人の天沢退二郎さんのように、毎朝娘さんの弁当を作ってきたという料理好きの人も、同世代には散見されるので、この無精を世代のせいだけにしてはいけないのかもしれないが。そう言えば、原石鼎に「向日葵や腹減れば炊くひとり者」があった。世代やシチュエーションは違っていても、石鼎も作者も、食事とはとりあえず空腹を満たすことと心得ている。この夏にも、完熟トマトを真二つにする男たちは、まだまだ多いだろう。『キリンの眼』(2002)所収。(清水哲男) August 032002 貰ひ来る茶碗の中の金魚かな内藤鳴雪鳴雪は子規門。「めいせつ」と読ませるが、「ナリユキにまかせる」の意を込めたと言うからとぼけている。二葉亭四迷(クタバッテシメエ)の類なり。さて、掲句は子供のころの思い出を詠んだものだと思う。一読、何の変哲もないようだけれど、金魚を入れた茶碗の手触りまでが伝わってくる句だ。こぼさないように慎重に、そろそろと歩きながら見つめる金魚の姿も鮮やかである。いまだったら、ビニール袋にでも入れるところだけれど、明治期にそんな便利なものはない。他に何か適当な入れ物はなかったのかと想像してみたのだが、思いつかなかった。たとえば手桶などに入れたほうが心配はないが、手桶だと、また返してもらわなければならない。入れ物ごと進呈するには、やはり安茶碗か使い古しの茶碗くらいしかなかったのだろう。しかし、私が子供だったころにも、釣り餌用のミミズを欠け茶碗に入れたりしたけれど、最初に入れるときにはかなりの抵抗感があった。同じような違和感が、作者の気持ちのなかにも流れていたはずである。したがって、句の主役は「金魚」そのものではなくて、あくまでも「茶碗の中の金魚」でなければならない。暑い夏の日の昼下がり、汗だくのこの子は、無事に家まで戻れたろうか。「つづき」が気になる。『鳴雪句集』(1909)所収。(清水哲男) August 042002 河童の恋する宿や夏の月与謝蕪村実 August 052002 少年に夢ジキタリス咲きのぼる河野南畦季 August 062002 かくらんに町医ひた待つ草家かな杉田久女季語は「かくらん(霍乱)」で夏。暑気中りが原因で起きる病気の総称である。現在では日射病などの熱中症を指す場合が多いが、古くは命にかかわるようなコレラやチフスの重病も含めていたようだ。よく言われる「鬼の霍乱」は、重病のケースだろう。句意は明瞭。家族の誰かが急に具合が悪くなり、あまりに苦しそうなので、町から医者に来てもらうことにした。病人を励ましながら、医者を待つ時間の何と長くて暑く、心細くもいらいらさせられることか。「町」と「草家」の対比で、作者の家が町から遠い場所にあることが知れる。いまならば確実に救急車を呼ぶところだが、昔の村などではみな、こうしてじいっと医者が来るまで「ひた待つ」しかなかった。そのうちに、やっと看護婦を従えた医者が到着する。あれは不思議なもので、医者が到着するだけで家内の雰囲気がぱっと明るくなり、病人も安堵するので、もう半分くらいは治ったような気持ちになるものだ。少年時代の私も、病人としてその雰囲気を体験したことがある。「助かった」と、心底思ったことであった。久女に、もう一句。「かくらんやまぶた凹みて寝入る母」。しかるべき処置をして、医者が帰っていった後の句だろう。やつれてはいるけれど、すっかり安心して、静かに寝入っている母よ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男) August 072002 百日草がんこにがんこに住んでいる坪内稔典季語は「百日草」で夏。メキシコ原産。その名のとおり、うんざりするほどに花期が長い。栽培も容易で生育も早く、しかもしぶといときているから、江戸期より園芸用として広まったのもうなずける。掲句は花の観賞ではなく、そうした生態のみに着目して「がんこにがんこに」と繰り返した。句の妙は「住んでいる」の切り返しにある。読み下していく途中、読者は最初の「がんこに」のあたりで、なんとなく「咲いている」などと下五を予想してしまう。次の「がんこに」で、ますますそのイメージが強固になる。そこまで仕組んでおいてから、作者はさっと梯子を外すようにして「住んでいる」と切り換えた。ここで一瞬、読者に句の主体を見失わせるわけだ。すなわち「がんこにがんこに」は百日草の生態にもかかっているが、咲かせている家の人の生き方にこそ大きな比重がかけられていたのだった。やられた。やられたのだけれど、しかし、悪い気はしない。そこで、もう一度読んでみると、なるほどと納得がいく。地味ながら頑固一徹に生きている主人公の姿すら、思い浮かべられるようだ。こういうことにかけては、やはり当代一流の作者なのである。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男) August 082002 秋立つや皆在ることに泪して永田耕衣耕衣の句だからといって、構えて読むことはないだろう。そのまま、素直にいただいておきたい。立秋のある八月は、旧盆もあり敗戦の日もある。多くの人が自然に死者を悼み、追慕する月だ。その八月の立秋を今年も迎えて、作者は家族友人知己の誰かれが「皆在ること」に「泪(なみだ)」するほどに感謝している。人生、これ以上の幸福が他にあるだろうか、と……。立秋とはいえ、もとより暦の上のことで、いまごろが暑さのピークだ。古来、俳人たちは立秋を詠むときに、そのかみの和歌の伝統を踏まえて、なんとか涼味を盛り込もうと腐心してきたけれど、掲句にはそういうところがまったく感じられない。無理をせずに、単に暦の上の一区切りとして捉え、むしろこの後にやってくる死者の季節へと気持ちを動かしている。動かしているからこその「泪して」なのだ。このあたりが、やはり耕衣ならではのユニークさであり、ひときわ異彩を放っていると言うべきか。例年のことながら、甲子園の高校野球大会が終わるころまでは、まだまだ暑さきびしい日がつづきます。読者諸兄姉におかれましては、くれぐれもご自愛ご専一にお過ごしくださいますように。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男) August 092002 七夕をきのふに荒るる夜空かな吉田汀史季語は「七夕」、昔は陰暦七月七日(または、この日の行事)を指したので秋に分類。仙台七夕など各地の月遅れの祭りは終了したが、昔流に言うと、今年は今月の十五日にあたる。句は、七夕が過ぎたばかりの空が、急に荒れだした様子を描いている。台風でも近づいてきたのだろうか。「きのふ」の七夕の晴夜が嘘のように、黒い雲が走る不気味な空を見上げて、作者が思うことはおそらく「祭りの果て」「宴の後」といったことどもだろう。一抹の寂しさを、荒れはじめた夜空がさらに増幅している。これを単なる自然現象による成り行きと言ってしまえばそれまでだが、こういうときに人は、自然現象にも人ならではの意味を読んできた。「ハレ」と「ケ」の交互出現、良いことは長くつづかぬといった考えなどは、みな自然現象から読み取ったものだ。俳句様式はまた、こうした読み取りを得意としてきたのだった。ところで、三鷹市にある国立天文台では、昨年から「伝統的七夕」の復活を呼びかけている。新暦でもなく月遅れでもなく、旧暦による七夕を祝おうと、今年も十五日には市内でイベントが予定されている。天体の専門家たちによる提唱ゆえ、やがて全国に波及していく可能性は高いだろう。俳誌「航標」(2002年8月号)所載。(清水哲男) August 102002 秋暑し鏡少なき工学部市川結子工学部に、人を訪ねた。暑い最中を歩いてきたこともあり、会う前にちょっと身繕いを直そうと鏡を探すのだが、なかなか見つからない。冷房の効いていない長い廊下で戸惑っている作者の姿が、目に浮かぶ。言われてみると、なるほど「工学部」とは、そういう場所のような気がする。むろん洗面所にはあるだろうけれど、古ぼけた小さな鏡が、薄暗い照明の下に申し訳程度に貼り付けられている(ような気がする)。いまでもたぶん、工学部には圧倒的に男子学生が多いから、あまり洒落っ気とは縁がないのだ。……と思えてもくるけれど、しかし新しい大学は別にして、では他の学部に鏡がたくさんあるのかというと、似たりよったりではなかろうか。昔から比較的女子学生が多いからといって、とくに文学部に鏡が多いというわけでもないだろう。なかで、なんとなく医学部や薬学部には他学部よりもありそうだが、実際にどうなのかは、意識して見たことがないのでわからない。だからといって、掲句の学部名を仮に法学部や経済学部に入れ替えてみても、どうもしっくりとはこないことに気がつく。やはり「工学部」でなければならない。そこが面白い。鏡の有無から学部の雰囲気を描き出すとは、さすがに女性ならではの発想である。感心した。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男) August 112002 追撃兵向日葵の影を越え斃れ鈴木六林男小 August 122002 炎天の原型として象歩む奥坂まやあるところで、作者は「俳句作品は、それぞれの季語へのお供え物であると思う。もうすでに存在するような作品では季語に喜んでもらえないので、なるべく新しくかつ深いものを捧げたい」と述べている。となれば、掲句は季語「炎天」へのお供えものだ。「炎天」に具象的な「原型」があるはずだという見方は、深いかどうかの判断は置くとして、たしかに新鮮だと思った。夏をつかさどる神の意味の「炎帝」という季語は「もうすでに存在する」が、具象的ではない。そして、その原型は猛暑などはへっちゃらの「象」だと言うのである。しからば、この象はどこを「歩む」象なのだろうか。と、気にかかる。動物園なのか、アフリカやアジアの自然の中なのか、それともインドやミャンマーなどの労働の場なのか。どこでもよいようなものだけれど、私には飼育されて働いている象の姿が浮かんでくる。つまり、動物園の象とは違い、文字通りに人間と共存しているからこそ、酷暑に強い象のたくましさが引き立ち、まるで炎天の原型みたいに思えてくるのも自然な成り行きと感じられるからだ。少年時代に雑誌で読んだ巽聖歌の詩の書き出しに「象の子はどしりどしりよ、日盛りのまちを行ったと」(表記不明)とあった。子象のたくましくも愛らしい姿を描いた詩で、止めは「赤カンナ盛りだったと」と抒情的だが、その健気さに打たれてしまった。掲句を知ってすぐに思い出したのがこの詩で、そういうこともあるので、どうしても人とともに働いている象のイメージにとらわれてしまうのかもしれない。『列柱』(1994)所収。(清水哲男) August 132002 羅におくれて動くからだかな正木浩一女性用が圧倒的に多いが、「羅(うすもの)」には男性用もある。作者は、たぶん身体がだるいのだろう。盛夏にさっと羅を着ると、健康体なら心身共にしゃきっとした感じがするものだが、どうもしゃきっとしない。動いていると、着ているものに「からだ」がついていかないようなのだ。その違和感を「おくれて動く」と言い止めた。ゆったりと着ているからこその違和感。着衣と身体の関係が妙に分離している感覚を描いて、まことに秀逸である。羅を着たことのない私にも、さもありなんと思われた。作者は現代俳人・正木ゆう子さんの兄上で、1992年(平成三年)に四十九歳の若さで亡くなっている。生来病弱の質だったのだろうか。次のような句もあるので、そのことがうかがわれる。「たまさかは濃き味を恋ふ雲の峰」。カンカン照りの空に、にょきにょきと雲の峰が立ち上がっている。このときは、多少とも体調がよかったようだ。雲の峰に対峙するほどの気力はあった。が、医者から「濃き味」の食べ物を禁じられていたのだ。健康であれば、猛然と塩辛いものでも食べるところなのだが、それはままならない。やり場のない苛立ちを押さえるようにして、静かに吐かれた一句だけに、よけい心に沁みてくる。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男) August 142002 樟脳舟しやうなう尽きてしまひけり菊田一平無 August 152002 終戦日ノモンハン耳鳴りけふも診る佐竹 泰敗戦の日がめぐってきた。今日という日に思うことは、どれをとっても心に重い。その思いを数々の人が語り書きついできており、俳句の数だけでも膨大である。歳時記のページを開くと、一句一句の前で立ち止まることになる。そんなページに掲句を見つけて、はっとした。もしかすると、この句の情景は終戦日当日のそれであったのかもしれないと思ったからだ。むろん当日には「終戦日」という季語はないのだから、実際には何年かを経て詠まれたのだろう。が、詠んだ情景が戦争に敗けた日のことだとするならば、より感動は深まる。あの日は正午から玉音放送があるというので、仕事どころではなかった人が大半だったはずだ。しかし一方で、仕事を休むわけにはいかない人々もいた。作者のような医者も、その一人だ。世の中に何が起きようとも、待っている患者がいるかぎり、診察室を閉じるわけにはいかない。だから、この日もいつものように診察したのである。しかも患者は、ノモンハン参戦で耳鳴りが止まらなくなった人だ。難聴の人にとって、玉音放送などは無縁である。ノモンハン事件は、1939年(昭和十四年)5月から9月にかけて、満州(中国東北)とモンゴルの国境ノモンハンで起こった日ソ両軍の国境紛争だった。日本は関東軍1万5千名を動員したが、8月ソ連空軍・機械化部隊の反撃によって壊滅的打撃を受けた。事件から六年を経て、なおこの人は後遺症に苦しんでいたことになる。さりげない句のようだが、戦争の悲惨を低い声でしっかりと告発している。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男) August 162002 精霊舟草にかくるる舟路あり米沢吾亦紅季語は「精霊舟(しょうりょうぶね)」で秋。送り盆の行事の終わりに、供え物を流すときの舟。多くの歳時記には真菰(まこも)や麦わらで作ると書かれているが、私の故郷(山口県)の旧家あたりでは木造だった。盆が近づいてくると、農作業のひまをみては、少しずつ作り上げていく。立派なのになると、大人が両手でやっと抱えられるほどの大きさだ。本番で転覆しないように、慎重に何度もテストを重ねる。テストは昼間だったので、よく見にいった。我が家は分家で墓がないため、盆とは無縁だったけれど、むろんそのほうがよいに決まっているが、この舟だけは単純に欲しかった。「ウチにもハカがあったらなあ……」などと、ふとどきな妄想を抱きつつ、テストを見ていたものだ。さて、本番の夜。小学校の校庭での盆踊りが終わると、舟たちの出番がやってくる。学校から道一つ隔てた川にみんなで集まり、腰まで水につかった若い衆が、一つ一つ舟や燈籠を受け取っては流していく。さきほどまでの盆踊りの喧騒が嘘のように静まり、誰もが無言で川面を行くものを眺めていた。なかにはすぐに岸辺にひっかかるのもあり、若い衆が長い竹竿で「舟路」に戻してやっていた。句のように、やがて「草にかくるる」舟路だったから、儀式には一時間もかからなかったと思う。終わると、真っ暗な道を大人たちはどこかに飲みに行き、子供は寝るために家に戻った。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男) August 172002 暑き日の證下界に光るもの山口誓子誓子は登山をよくしたから、山の句も多い。頂上まで登る途次に、一休みで「下界」を見下ろした。煙草を喫う人だったかどうかは知らないけれど、一服しながら眺める下界の様子は心に沁みる。あんなに低い所から登ってきたという達成感もあるが、それ以上にあるのは、あそこには人々の暮らしがあるのだという感慨だろう。高い山には、まったく暮らしの匂いがない。ないから、ごく自然に「下界」(人間界)と口をついて出てくる。それにしても、ヤケに暑い日だ。何度くらいだろうか。見やっている下界では、ところどころで何かが陽射しを反射して強烈に光っている。あれが暑さの「證(あかし)」だ、道理で暑いわけだと、納得している。山の子だった私には、かつて見慣れた光景だが、下界に「光るもの」と言われて、あらためて気づいたことがある。人が暮らす場所には、必ず「光るもの」があるということ。川や海も光るが、もっと鮮烈に光るものと一緒に人は暮らしているということだ。昔は土蔵の白壁だったり屋根瓦だったり、いまではビルの窓ガラスや車のボディだったりするわけで、地上ではさして気にもとめないでいる「光るもの」が、高い山なる「天界」から見ればまことに鮮やかに写るのである。となれば、あの世には「光るもの」などない理屈だと、妙なことまで思ってしまった。『山嶽』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男) August 182002 流れよる枕わびしや秋出水武原はん女秋 August 192002 昼寝びと背中この世の側にして小川双々子季語は「昼寝」で夏。そろそろ、大人の昼寝のシーズンもお終いだ。私は昼寝が大好きだが、涼しくなってくると、さすがに寝る気にはなれなくなる。暑さゆえの疲労感がなくなるからだろう。夜の睡眠とは違って、昼寝には明日の労働力再生産への準備といったような意味合いがない。たいてい、何の目的もない。だから、夜間に眠れなくて深刻に悩む人は多いけれど、昼間に寝られないからといって、気に病む人はいないはずだ。そして、昼寝に入るときの至福感は、入浴のときの「ああ、天国天国」という感じによく似ていると思う。当今流行の言葉で言えば、一種の「癒し」に通じている。作者はたぶん、そういう感覚から「昼寝びと」を見ているのだろう。すなわち、昼寝の当人は「天国」に向いている気持ちなのだが、起きている作者からすると、そういったものでもないのである。俯せにか、横向きにか。無邪気に寝入っている人の気持ちはともかく、見えている「背中」は「この世の側」に残っている。現実が、べったりと背中に貼り付いている。かといって、昼寝の人が故意にこの世に背を向けているのでもない。人の気持ちと現実とが乖離(かいり)している様子を、視覚的にとらえてみせた巧みさに、私は惹かれた。俳誌「地表」(2002年・第415号)所載。(清水哲男) August 202002 夏逝くや油広がる水の上廣瀬直人暦の上ではとっくに秋になっているが、体感的な夏もそろそろ終りに近づいてきた。八月も下旬となると、ことに朝夕は涼しく感じられる。作者はそんな季節に、日中なお日の盛んな池か川の辺にたたずんでいる。「水の上」を見やると、何かの「油」が流れ出しており、日光を反射した油の輪が鈍い虹色を放っていた。一読、すぐに「油照」という季語が連想される。風がなく、じっとしていても脂汗(あぶらあせ)が滲んでくるような夏の暑さを言う。このときに掲句は、まさに本物の現象としての油照と言ってよいだろう。見ているだけで、脂汗が浮いてきそうだ。しかし、じっと油の輪が照り返す光りの様子を見ていると、静かに少しずつ輪が広がっていくのがわかる。広がっていくにつれて、虹色の光彩は徐々に薄まっていくのである。そこで作者は、今そのようにして夏が逝きつつあるのだと実感し、この句に至った。さすがの猛暑も、ついに水の上の油のように拡散し、静かに消えていこうとしている……。やがてすっかり油の輪が消えてしまうと、季節は「べとべと」の夏から「さらさら」の秋へと移っていく。油に着目した効果で、このように体感的にも説得力を持つ句だと読んだ。『矢竹』(2002)所収。(清水哲男) August 212002 ほの赤く掘起しけり薩摩芋村上鬼城季語は「薩摩芋(甘藷)」で秋。収穫期は霜が降りるころ、秋も深まってからだ(もっとも、いまでは晩夏から収穫できる品種もあるようだ)が、句の姿からして、この場合は早掘りだろう。もうそろそろ食べられるかなと試しに掘ってみると、まだ細いけれど「ほの赤」い芋が現れた。可憐な感じさえするその芋の姿に、作者は感じ入っている。収穫期の労働の果ての芋を、こんなふうにしみじみと見つめて、愛情を注ぐわけにはいかない。いわゆる初物ならではの感慨が、じわりと伝わってくる。ところで薩摩芋といえば、敗戦後の食糧危機を救った二大野菜の一つだった。もう一つは、南瓜。二つとも元来が強じんな性質だから、どこにでも植えられ、それなりによく育った。灰汁抜きが大変だったけれど、薩摩芋は蔓まで食べたものだ。しかし、夏は南瓜を主食とし、秋には薩摩芋を食べつづけた反動が、やがてやって来ることになる。私以上の世代で、薩摩芋と南瓜には見向きもしない人が多いのは、そのせいだ。青木昆陽の尽力で薩摩芋が18世紀に普及したときにも、貧しい人々の食料として広がっていった。そして、たとえば里芋は名月の供物とされるなど民俗行事に関わることが多いが、薩摩芋は大普及したにも関わらず、驚くほどに民俗とは関係が薄い。人は、飢えを祭ることはしないからである。ちなみに、俳句で単に「芋」といえば里芋を指す。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男) August 222002 鶏頭やおゝと赤子の感嘆詞矢島渚男季語は「鶏頭(けいとう)」で秋。昔、どこにでもあった鶏頭はおおむね貧弱な印象を受けたが、最近では品種改良の結果か、「おゝ」と言いたいほどのなかなかに豪奢なものがある。そんな鶏頭を見て、赤子が「おゝ」と「感嘆詞」を発したというのだ。このときに、作者は思わず赤子の顔を覗き込んだだろう。むろん、赤子は鶏頭の見事さにうなったのではない。内心でうなったのは作者のほうであって、タイミングよくも赤子が声をあげ、作者の内心を代弁するかたちになった。そのあまりのタイミングのよさに「感嘆詞」と聞こえたわけだが、赤子と一緒にいると、ときどきこういうことが起きる。なんだか、こちらの気持ちが見通されているような不思議なことが……。思わず覗き込むと、赤ちゃんはたいてい哲学者のように難しい顔をしている。場合によっては、いささか薄気味悪かったりもする。無邪気な者は、大人のように意味の世界を生きていないからだ。またまた脱線するが、江戸期まで、鶏頭は食用にもされていたらしい。貝原益軒が『菜譜』(1704)に「若葉をゆでて、しょうゆにひたして食べると、ヒユよりうまいが、和(あ)え物としてはヒユに劣る」と述べている。鶏頭の元祖であるヒユ(ナ)はいまでも夏野菜として一部で栽培されており、バター炒めにするとクセがなくて美味だそうだが、食したことなし。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男) August 232002 露草や分銅つまむピンセット小川軽舟季 August 242002 仔馬爽やか力のいれ処ばかりの身中村草田男季語は「爽(さわ)やか」で秋。天高し。「仔馬」が飛び跳ねるようにして、牧場を駆け回っている。加減などせずに、全力で遊んでいる様子は、いかにも爽やかだ。見ていると、脚といい首といい胴といい、全身の筋肉という筋肉が使われているようだ。それを「力のいれ処(ど)ばかりの身」と押さえたことにより、躍動する仔馬の存在が生き生きとクローズアップされた。涼しそうな爽やかさではなく、汗を感じながらの爽快感が詠まれている。いかにも、力感のこもった草田男らしい表現と言うべきか。ところで、同じ馬の爽やかさを詠んだ句でも、山口誓子の「爽やかやたてがみを振り尾をさばき」は対照的だ。こちらは大人の馬だから、動作に落ち着きがある。もはや仔馬時代のように無駄な筋力を使うこともなく、悠々と闊歩している。競馬場のサブレッドか、乗馬用に飼育されている馬だろう。その汗一つ感じさせない洗練された動きが、ことに「尾をさばき」から伝わってくる。なるほど、爽やかな印象だ。かつての私の身近には、農耕馬しかいなかった。彼らはいつもくたびれた様子で首を垂れており、お世辞にも爽やかさを感じたことはない。でも、仔馬のときにはきっと草田男句のように元気だったのだろう。そう思うと、やりきれない気分になってくる。両句とも『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)に所載。(清水哲男) August 252002 朝刊は秋田新報鰯雲中岡毅雄旅先での句。目覚めた部屋に配達されていた新聞を見ると、いわゆる中央紙ではなくて、地元の新聞だった。朝一番に旅情をもたらすのは、風景などではなくて、新聞だ。日ごろ読み慣れていない新聞に、ああ遠くまで来たのだという思いが強くわいてくる。さっとカーテンを引いて窓を開けると、思いがけないほどの上天気だった。鰯雲の浮く爽やかな秋晴れ。朝食までの時間、お茶でも飲みながらゆっくりと新聞に目を通す。窓からは、心地よい秋の風……。記事には知らない地名も多く、なじみのない店の広告もたくさん載っているけれど、これがまた旅行の楽しみなのだ。「朝刊は秋田新報」という表現は、たとえば落語の「サンマは目黒(に限る)」の言い方のように、「朝刊は秋田新報に限る」という気持ちに通じている。その土地では、その土地の新聞に限るのである。朝刊一紙の固有名詞で、旅の楽しさを巧みに言い止めた技ありの一句だ。なお、この「秋田新報」は、正式には「秋田魁(さきがけ)新報」と言う。明治期に創刊された伝統のある新聞だ。戦後の短い期間には「秋田新報」の題字で出ていたこともあるが、いまは「魁」の文字が入っている。でも、たぶん地元の人は「アキタサキガケシンポウ」などと長たらしくは呼ばずに、「あきたしんぽう」の愛称で親しんでいると思う。秋田のみなさま、如何でしょうか。『椰子・椰子会アンソロジー2001』所載。(清水哲男) [追記]教えてくださる方があり、秋田では「さきがけ」と略しているそうです。作者が「さきがけ」の愛称を詠み込まなかったのは、自分が旅行者であることを明白にする意図があったのでしょうね。 August 262002 鄙の宿夕貌汁を食はされし正岡子規原文の「夕貌」の「貌」は、「白」の下に「ハ」を書く異体字が使われている。「夕貌(夕顔)」の花は夏の季語だが、この場合は実なので、秋季としてよいだろう。『仰臥漫録』に、八月二十六日の作とある(当歳時記では、便宜上夏の部に登録)。さして佳句とも思えないが、食いしん坊の子規が「食はされし」と辟易している様子が愉快だ。いかな「鄙(ひな)の宿」といえども、あんなに不味いものを出すことはないのにと、恨んでいる。子規にも、食べたくないものはあったのだ(笑)。私の子供の頃に、味噌汁の具として食べた記憶があるけれど、まったく味も素っ気もなかった。やはり、干瓢にしてからのほうが、よほど美味しい。さて、子規の猛然たる食いっぷりを、掲句を書きつけた日の記録から引用しておこう。この食生活に照らせば、句の恨みのほどがよくわかる。「朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干し(砂糖つけ)。昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮。夕 奈良茶飯四椀、なまり節(煮て、少し生にても)、茄子一皿」。これだけではない。この後に「この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」とあり、「二時過牛乳一合ココア交ぜて、煎餅菓子パンなど十個ばかり」とある。そして、まだ足りずに「昼食後梨二つ、夕食後梨一つ」というのだから、食の細い私などは卒倒しそうになる。さすがに「健胃剤」を飲んでいたようだが、とどめの文章。「今日夕方大食のためにや例の下腹痛くてたまらず、暫くにして屁出で筋ゆるむ」です、と。(清水哲男) August 272002 ある晴れた日につばくらめかへりけり安住 敦季語は「燕帰る」で秋。この季節になると、「つばくらめ(燕)」たちはいつの間にか次々といなくなってしまう。軒端に、空っぽの巣が残される。きっと「ある晴れた日」を選んで、遠い南の島に渡っていったのだろうと、作者は納得している。実際には、どんな天候の日に姿を消したのかはわからない。わからないけれど、それを晴れた日と思いたい作者の心根は、かぎりなく優しい。こういう句に出会うと、ホッとさせられる。この句を読んで思い出した童謡に、野口雨情の「木の葉のお船」がある。「帰る燕は 木の葉のお船ネ 波にゆられりゃ お船はゆれるネ サ ゆれるね」。雨情もまことに心優しく、ずうっと飛んでいかせるのは可哀想だと、そっと船に乗せてやっている。身体が小さいので、木の葉のお船に……。ところで季語の「燕帰る」だが、彼らは日本で生まれるので、本当は「帰る」のではない。と、こういうことにうるさい(失礼、厳密な)俳人は「燕去る」と使ってきた。後者が正しいに決まっているが、でも、「帰る」としたほうが、燕に対しては優しい言い方のような気がする。彼らが渡って行く先には、ちゃんと「家」が待っているのだと想像すれば、心がなごむ。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男) August 282002 吹き起こる秋風鶴をあゆましむ石田波郷端 August 292002 俳優は待つのも仕事秋扇小倉一郎季語はもちろん「秋扇(あきおうぎ)」だが、こういう季語があるところにも、俳句の面白さがある。プロの俳人諸氏は不感症になっているかもしれないけれど、初心者にはハッとさせられる新鮮な季語だろう。日常一般には使わない言葉だとしても、たしかに「秋扇」としか言いようのない扇のあり方がある。朝方は涼しくても、昼間は暑くなるかもしれないと、用心のためにバッグにしのばせて出かけたりする。私などは、この時期の「夜の」野球見物にすら、必ず鞄に入れて持参する。立派な扇子などではなくて、宣伝に貰ったダサい団扇だけれど(笑)。役に立とうが立つまいが、とりあえず安心のために持っていく。物それ自体としては何の変哲もないのに、秋という季節の言葉をかぶせることによって、誰にでも思い当たる「扇」のありようが、忽然として出現してくるという季語だ。敷衍して、もっと涼しくなってきたときの忘れ去られた扇のことも言う。だから、女性を詠み込む句には、間違っても「秋扇」を使ってはいけないと、誰かに教えられたことがあった。句の作者は、映画かテレビのロケ現場で、とにかく出番を待っている。暑い日になり、持参した扇が役に立っているのだ。それはそれでよいとして、待てどもいっこうに出番がまわってこないことに苛々している。もしかすると、忘れられちゃったのではないのか。すなわち「秋扇」のように……。この句で思い出したことがある。若き日の編集者時代に、紅茶一杯で、私を十二時間も待たせてくれた有名女性作家がいたことを、ね。「待つのも仕事」。小倉さん、あのときにしみじみと私も、そう思ったことでした。小倉一郎句集『俳・俳』(2000)所収。(清水哲男) August 302002 酔眼の夜を一本の捕虫網寺井谷子季語は「捕虫網」で夏。子供たちの夏休みも、もうすぐお終いだ。休みの間振り回した捕虫網の出番も、ぐんと減ってしまう。もっともこれは昔の話で、いまの宿題には昆虫採集など出ないだろう。少なくとも、都会地では無理難題だから……。いささか酔った作者は、帰宅のために夜道を歩いている。ふと前方に、なにやら白いものがゆらゆらと浮かびながら進んでいるのに目がとまった。なんだろうか。目を凝らして見ようとするのだが、酔眼ゆえか、はっきりとしない。まさか人魂の類ではないとしてなどと、しきりに思いをめぐらすうちに、はたと「捕虫網」であることに気がついたのである。真っ暗な夜道だから、持っている人の姿は見えない。白い網だけが、ただ揺れながら漂っている。酔眼のなかに、真っ白くくっきりとしたものが動いている図は、想像するだに幻想的だ。季節的には夏の盛りというよりも、晩夏の幻想世界としたほうが似合うだろう。こういう情景ともしばしお別れかと、逝く夏を惜しむ気持ちも重なって、いよいよ前を行く真っ白いものが鮮明さを増してくるようだ。『笑窪』(1986)所収。(清水哲男) August 312002 かなかなや故郷は風の沙汰なりし細谷てる子季語は「かなかな」で秋、「蜩(ひぐらし)」とも。あの鳴き声には、郷愁や旅愁を誘われる。わけもなく、センチメンタルな気分になる。いま、ここで「かなかな」が鳴いているように、「故郷」でも鳴いていた。この刻にも、同じように鳴いているだろう。その故郷を離れてから、ずいぶんと久しい。疎遠になった。誰かれの消息も、もはや「風の沙汰(便り)」にぼんやりと聞こえてくるくらいだ。そんな思いをめぐらしているうちに、作者には故郷そのものが幻だったようにすら思えてきたのだ。あの土地で生まれ育ったなんて、実際にはなかったことなのではあるまいか。いや、きっとそうなのだろう。と、だんだん「かなかな」の声が高まってくるにつれ、幻性も高まってくる。「風の沙汰なりし」と止めたのは、たとえば「風の沙汰となり」と押さえるのとは違って、故郷それ自体を風の便りの中身みたいにあやふやな存在として掴んでいるからだ。古来「かなかな」の句はたくさん詠まれてきたが、ちょっとした抒情の味付け的役割を担わされている場合が大半であり、その点で掲句は異彩を放っていると印象づけられた。故郷は遠くにありて、ついに幻と化したのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
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