当サイトのセレクションが本になりました。配本を確認してから近日中に御案内します。




2002ソスN7ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2672002

 寝冷人まなこで凝と我を見る

                           八田木枯

語は「寝冷人(寝冷え)」で夏。「寝冷子」という季語もあるほどで、子供はしばしば寝冷えするが、句の「人」は大人だろうか。いずれにしても家人であり、あまり体調がよくないようだ。といって大病を患っているわけでもないから、気遣うともなく気遣うという感じで当人を見やると、「凝(じっ)と」見返してきた。「まなこで」が効いている。疲れてだるいその人の「まなこ」は、何かを訴えたり、表現しようとしているのではない。ただ、じいっと見返してきただけなのだ。瞬時かもしれないが、お互いの「まなこ」が吸い付き吸い付かれたような関係となり、一種の真空状態が生まれたような感じになる。そこには、何のコミュニケーションもない不思議な関係ができあがり、自然にすっと目を外すことができなくなる。相手の「まなこ」だけがぐっとクローズアップされてきた様子を、「まなこ」で見ると押さえたわけだ。こういうことは、日常的にときどき起きる。相手が病人ではなくとも、意味なく目が合い吸い付き吸い付けられてしまう。あれはいったい、いかなる心理的要因によるものなのか。要因はともかく、こういうことをきちんと書きこめる文芸は、俳句以外にはないだろう。「俳句」(2002年8月号)所載。(清水哲男)


July 2572002

 ひと魂でゆく気散じや夏の原

                           葛飾北斎

世絵師・北斎の辞世句として、つとに知られる。享年九十というから、長命だった。「気散じ(きさんじ)」は心の憂さをまぎらわすこと、気晴らしのことだ。これからの俺は「ひと魂(ひとだま)」となって、ふうわりふうわりと「夏の原」を気ままに漂うのさ。もう暑さなんかも感じないですむし、こんなに気楽なことはない。では、みなさまがたよ、さようなら……。北斎は川柳をよくしたので、川柳のつもりで詠んだのかもしれない。死を前にした境地ながら、とぼけた味わいがある。言い換えれば、残された者への救いがある。同じ辞世句にしても、たとえば芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ迴る」などとは大いに異なっている。ところで、最近気になるのが、この死ぬ前の境地という心のあり方だ。それぞれの境地に至るのはそれぞれの個人であるわけだが、一方ですべての境地はその人が生きた社会的産物でもあるだろう。となれば、現代社会の産物としての境地なるものは、どんな中身と構造を持つのだろうか。少なくとも江戸期などとはまったく違うだろうし、それをよく俳句様式に集約できるものなのかどうかもわからない。辞世の念を述べる述べないはさておき、私にも一度だけチャンスは訪れる。そのときに果たして、何が見えるのだろうか。べつに、楽しみしているのではないけれど。(清水哲男)


July 2472002

 黒眼鏡暗しふるさと田水沸く

                           西村公鳳

語は「田水沸く」で夏。この季節の田圃は強烈な陽射しのために、湯のように熱くなる。化学肥料に頼らなかった時代には、この熱い田圃に入って草を取るのが夏の農家の大仕事だった。一番草から三番草まで、焼けつくような太陽を背に黙々と草を取る大人たちの姿が忘れられない。よくぞ熱中症で倒れなかったものだ。亀村佳代子に「鳥影も煮立つ田水の二番草」があるが、決して大袈裟な物言いではないのである。掲句は、そんな「ふるさと」での暮らしを嫌って、都会に出ていった男の作だと読める。夏休みでの帰省だろうか。一面の田圃が照り返す光りのまぶしさに、都会で常用している「黒眼鏡」をかけた。いきなり「ふるさと」は暗くなり、田水の湧く熱気が暗く立ち上ってくるばかり……。この暗さは、黒眼鏡による物理的な暗さでもあるが、作者の内心から来るそれでもあるだろう。昔からの多くの農村脱出者に共通する、ひさしぶりの故郷を前にしたときの後ろめたくもやりきれない暗い心情が、田水のように心のうちに沸いてくるのだ。言うところの故郷に錦を飾れたのならばまだしも、都会での仕事に何一つ誇りを持つことのできないでいる男の帰郷はかくのごとしと、作者は黒眼鏡をかけたまま憮然としている。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます