蟄」隱槭′螟城弱ョ句

July 2572002

 ひと魂でゆく気散じや夏の原

                           葛飾北斎

世絵師・北斎の辞世句として、つとに知られる。享年九十というから、長命だった。「気散じ(きさんじ)」は心の憂さをまぎらわすこと、気晴らしのことだ。これからの俺は「ひと魂(ひとだま)」となって、ふうわりふうわりと「夏の原」を気ままに漂うのさ。もう暑さなんかも感じないですむし、こんなに気楽なことはない。では、みなさまがたよ、さようなら……。北斎は川柳をよくしたので、川柳のつもりで詠んだのかもしれない。死を前にした境地ながら、とぼけた味わいがある。言い換えれば、残された者への救いがある。同じ辞世句にしても、たとえば芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ迴る」などとは大いに異なっている。ところで、最近気になるのが、この死ぬ前の境地という心のあり方だ。それぞれの境地に至るのはそれぞれの個人であるわけだが、一方ですべての境地はその人が生きた社会的産物でもあるだろう。となれば、現代社会の産物としての境地なるものは、どんな中身と構造を持つのだろうか。少なくとも江戸期などとはまったく違うだろうし、それをよく俳句様式に集約できるものなのかどうかもわからない。辞世の念を述べる述べないはさておき、私にも一度だけチャンスは訪れる。そのときに果たして、何が見えるのだろうか。べつに、楽しみしているのではないけれど。(清水哲男)


August 0382007

 焼酎や頭の中黒き蟻這へり

                           岸風三楼

れは二日酔いの句か、アルコール依存症の症状から来る幻を描いた句のように思える。まあ二日酔いならば「焼酎や」とは置かないと思うので後者だと思う。幻影と俳句との関係は古くて新しい。幻影を虚子は主観と言った。主観はいけません、見えたものをそのまま写生しなさいと。思いはすべて主観、すなわち幻影であった。だから反花鳥諷詠派の高屋窓秋は「頭の中で白い夏野となつてゐる」を書いて、見えたものじゃなくても頭で思い描いた白い夏野でもいいんだよと説いてみせた。窓秋の白い夏野も、この句の黒き蟻も幻の景だが、後者はこの景がアルコールによって喚起されたという「正直」な告白をしている。実際には「見えない」景を描くときは、なぜ見えない景が見えたのかの説明が要ると思うのは、「写生派」の倫理観であろう。西東三鬼の「頭悪き日やげんげ田に牛暴れ」はどうだ。この牛も、頭痛などで頭の具合が悪い日の幻影に思える。イメージがどんな原因によって喚起されようと、表現された結果だけが問題だと思うが、そうすると薬物を飲んで作ってもいいのかという最近の論議になる。これも文学、芸術の世界での古くて新しい課題。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


July 1172008

 鳥逐うてかける馬ある夏野かな

                           松尾いはほ

レビで動物の番組が見られなくなった。動物の悲惨は見るに耐えないが、最近は、動物の生態を撮った映像もだめ。こんな穴の中の住処までカメラを入れなくてもとか、この芸を覚えるのはかなりしんどかったろうな、などと考えるともうだめだ。これはやはり老化と関係するのだろう。舞台に子役が上がるとそれだけて泣いてしまうお婆ちゃんと同じだ。脚本家はここで泣かせようと意図して場面をつくる。泣けよ、泣けよ、ほうら、泣いた、やっぱりね。というふうに。それに嵌るのが、ボタンを押されたら涙が出るロボットみたいで悔しいから、定番の罠にかからないようにする。ここで泣かせようとするだろうと先手を打つわけである。俳句もほうら美しいでしょとか、見事に取り合わせが決まったでしょと主張する作品には魅力がない。罠に嵌められた感じがするんだな。意図された感動つまり従来の情緒を嫌って「もの」そのものを求めていくと、いつか鋏や爪切りがそこに在ることの哀しさや喜びを詠えるようになるのかななんて考える。逐うてはおうて。鳥を追って駆ける馬には嘘がない。それを写し取る作者の意図も抑制されている。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


May 0752009

 夏野原ねこのしっぽはまっすぐに

                           わたなべじゅんこ

こまでも広がる夏野の真ん中をぴんとしっぽを立てて歩いてゆく猫。単純な構図がたっぷりとした空間を想像させて気持ちがいい。亜熱帯が原産の猫にこれから訪れる夏は似合いの季節かもしれない。この頃は野良犬を見かけないが、路地裏に、家々の隙間に野良ネコたちはあいかわらず自由に元気だ。猫も犬もしっぽに表情があって、元気がない時はだらりと垂れ下がって、見るからに情けない。尾っぽの先が曲がっていたり、丸まって短いのもいるけど、猫の感情表現にしっぽは欠かせない。身近にいる犬を見ているとしっぽを立てているのは自信たっぷりに他の犬に近づいたり、喜びいさんで散歩に出かけるときのように思うが猫はどうなのだろう。掲句の猫は夏野をわたって自分の家に帰るところなのか、それともどこか遠くに自分の居場所を見つけにいくのか。ぴんと立てたしっぽの気持ちを想像してみるのも楽しい『seventh_heaven@』(2008)所収。(三宅やよい)


June 2462011

 いくたびか馬の目覚める夏野かな

                           福田甲子雄

の馬、どういう状態にいるのか。行軍の記憶のようでもあり、旅のイメージも感じられるし、夏野を前景として厩の中にいる馬の様子のようでもある。目覚めという言葉から加藤楸邨の代表句で墓碑にも刻まれている「落葉松はいつ目覚めても雪降りをり」が浮かぶ。手術後の絶対安静の状態で見た夢ともうつつともつかない風景というのが定説だが、僕には墓に刻まれていることもあって、楸邨が墓の中で眠っては目覚めの繰り返しを永遠に重ねているようにも思える。そういう目覚めを考えていたら、甲子雄さんの句は人に尽くしたあげく野に逝った無数の馬の霊に思えてきた。馬頭観世音の句だ。『金子兜太編・現代の俳人101』(2004)所載。(今井 聖)


August 0682012

 髪洗ふ背骨だいじと思ひけり

                           長戸幸江

齢を重ねてくると、いつしか嫌でも自分の身体の劣化に気づくようになる。昔の人は、劣化はまず「歯」にあらわれ、次に「目」にくると言った。私もその順番だった。そうなってくると、まだ現象としてあらわれてはいなくても、身体のあちこちの部位が心配になってくる。このときの句の作者の年齢は知らないが、髪を洗っているときに、うつむき加減の身体を支えている「背骨」の大切さを、身にしみて理解している。若いときには、思いもしなかった身体観が出てきたのだ。そしてだんだんこうした認識は、多くの立ち居振る舞いごとに浮かんでくるようになる。それが老人の性(さが)なのであり、仕方のないことだけれども、こうしてそのことを句として掲げられてみると、あらためて自分の身体にそくして同感している自分に気がつかされる。そしてこの認識は、次のような句にもごく自然に及んでいくのだ。「夏野原少女腕を太くせよ」。『水の町』(2012)所収。(清水哲男)


May 2852014

 大いなる雲落ち来る夏野かな

                           会津八一

の晴れあがった日の平野部。見渡すと東西南北ぐるりとまんべんなく彼方に、雲がもくもく盛りあがっている。視界いっぱいの夏だ。白い雲が鮮やかにまぶしく湧いているぶんには結構だけれど、それがにわかに黒雲に変貌したりして、突然冷ややかな風が起こってくると、昨今の気象は雹が降ったり、雷雨や竜巻が発生したりして油断ができない。「大いなる雲」はぐんぐん盛りあがっていたかと思うと、大瀑布が襲いかかるように、夏野にかぶさるように、容赦なく天から「落ち来(きた)る」というのだ。まさに「落ち来る」。高く広々とした夏野のダイナミズムに、圧倒されるようである。それまで夏野に散らばっていた人びとは、あわてて走り出しているのかも知れない。こんな光景を前にしたら、書家・八一先生は「雲」という文字をどんなふうに書きあげただろうか、と妙な興味をそそられる。まさに「大いなる」句姿である。掲句と並んでいて対になるような句「白雲の夏野の果てや村一つ」は、同じときの作かと思われる。『新潟県文学全集』第II期6(1996)所収。(八木忠栄)


August 0582015

 子狐の風追ひ回す夏野かな

                           戸川幸夫

夫が動物小説の第一人者だったことは、よく知られている。『戸川幸夫動物文学全集』15巻があるほどだ。彼の場合は愛玩動物ではなく、地の涯へ徐々に追いやられている野生動物に対する、優しいまなざしが深く感じられる文学である。掲出句も例外ではない。風に戯れている子狐に向けられる、やさしいまなざしにあふれている。野生に対するまなざし。「狐」は冬の季語だが、晩春のころに生まれて成長した子狐が、警戒心もまだ薄く夏の野原に出てきて、無心に風を追い回し戯れている光景を目撃したのであろう。加藤楸邨が狐を詠んだ句に「狐を見てゐていつか狐に見られてをり」がある。幸夫は戦前に取材の折に出会ったある俳人に、その後手ほどきを受けて俳句を作るようになったという。句文集『けものみち』の後書には、「物言はぬ友人たちのことを一人でも多くの方々に知っていただきたい…(略)…俳句もその一つ」とある。幸夫には他に「乳房あかく死せる狐に雪つもる」がある。内藤好之『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


May 2452016

 両腕は翼の名残夏野行く

                           利光釈郎

と翼と鰭はみんな同じものだという。腕は翼として羽ばたいていたかもしれず、鰭として大海原を泳いでいたのかもしれない。夏野の激しいエネルギーのなかに身をおけば、人間としてのかたちがほんの束の間の仮の姿のようにも思えてくる。男でも女でも、大人でも子どもでもなく、ずっと自由な生きものとして夏野を行く。しかし、ひとたび夏野を出れば、また元のきゅうくつな人間に戻ってしまうのだ。夏の野が見せる束の間の夢である。〈葱坊主みんな宇宙へ行くごとし〉〈万緑へ面打つ鑿をそろへけり〉『夏野』(2016)所収。(土肥あき子)




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