ついに私の名前でウィルス付きメールが送られてきた。嫌な感じというよりも変な感じ。




2002ソスN6ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2962002

 山奥に叔父ひとりおり山椒魚

                           寺田良治

語は「山椒魚(さんしょううお)」で夏。山間の渓流などに生息し、山椒に似た体臭があるのでこの名がついたそうだ。私は、水族館でしか見たことはない。トカゲの親分みたいな姿をして、いつ見ても不機嫌そうにムーッとしている。そんな山椒魚に係累があるとしたら、どんな関係があってどこに住んでいるのだろう。と、たいていの人が思いもしないことを思いついてしまうのが、作者のユニークなところ。「山奥に叔父ひとりおり」と言われてみれば、たしかにそんな気がする。その叔父もまた、山奥で同じようにムーッとしているのかと想像すると、とても可笑しい。同時に、両者はおそらく音信不通だろうし、彼にはもはや母や父もいないと知れるから、ちょっぴり可哀想な気もする。良質なペーソスが、じわっと感じられる佳句だ。他の「洗濯が好きでヨットに乗っている」や「ソーダ水しゅわっと泡立つお葬式」などと読みあわせて、かなり若い人の句かと思って略歴を見たら、私よりもずっと年長だった。還暦を過ぎて俳句をはじめたのだというから、驚きだ。「読みながら笑ってしまう句集である。こんな句集はめったにない」と、跋文で坪内稔典が書いている。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


June 2862002

 瀧壷に瀧活けてある眺めかな

                           中原道夫

語は「瀧(滝)」で夏。なんいっても目を引くのは「滝活(い)けてある」という見立てだ。花瓶などに花が活けられているように、瀧壷に瀧が活けてあると言うのである。落下してくるものを活けるとは、かなり無理があるのではないか。と、誰しもが思うところだろうが、しかし言葉面にこだわれば、「活ける」には土や灰の中に埋めるという意味もある。「炭を活ける」「土管を活ける」などと使い、「埋ける」とも書く。すなわち「活ける」の原義は「生かす」ということであり、ここから考えると、瀧壺が瀧を生かしていると見るのも不自然ではない理屈だ。瀧壺があって、はじめて瀧は堂々の落下を遂行することができる……。実際にも、勢いよく落ちてくる瀧を見ていると、瀧壺から太い水の脚が立ち上がっているようだ。「眺めかな」の押さえ方も、なかなかに憎い。ここであれこれ細工をすると、句が縮こまってしまい、瀧の雄大さが伝わらないだろう。読者をぽーんと突き放すことによって、句の姿自体も瀧のように太くたくましくなっている。どこの瀧だろうか。私は咄嗟に、中学の修学旅行で行った日光の華厳の瀧を思い出した。生まれてはじめて見た大きな瀧だったから、いつまでも印象は強烈なままに残っている。『アルデンテ』(1996)所収。(清水哲男)


June 2762002

 昔男にふところありぬ白絣

                           岡本 眸

語は「白絣(しろがすり)・白地」で夏。女性用もなくはないようだが、普通は和装男物の夏の普段着を言う。洋装万能時代ゆえ、最近ではとんと見かけなくなった。見た目にもいかにも涼しげだが、それだけではない。私の祖父が着て一人碁を打っている姿などを思い出すと、いま流行の言葉を使えば、精神的な「ゆとり」も感じられた。実際の当人には「白地着てせつぱつまりし齢かな」(長谷川双魚)の気持ちもあったのかもしれないが、傍目にはとにかく悠々としていて頼もしく見えたのだった。それこそ「懐の深さ」が感じられた。掲句もまた、そういうことを言っているのだと思う。女性だから、とりわけて今の男たちを頼りなく感じているのだろうし、引き比べて「昔」の男の頼もしさを「ふところ」に託して回想しているのだ。そしてもちろん、句は「むかし、をとこありけり。うたはよまざりけれど、世の中を思ひ知りたりけり」などの『伊勢物語』を踏まえている。美男子の代表格である在原業平までをも暗に持ちだされては、いまどきの「ふところ」無き男の立つ瀬はあろうはずもない。カタナシだ。恐れ入って、このあたりで早々に引っ込むことにいたしますデス(笑)。「俳句」(2002年7月号)所載。(清水哲男)




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