そろそろ当サイトの開設六周年だが、何のイベントも組めそうもない。来年に延ばそう。




2002ソスN6ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2762002

 昔男にふところありぬ白絣

                           岡本 眸

語は「白絣(しろがすり)・白地」で夏。女性用もなくはないようだが、普通は和装男物の夏の普段着を言う。洋装万能時代ゆえ、最近ではとんと見かけなくなった。見た目にもいかにも涼しげだが、それだけではない。私の祖父が着て一人碁を打っている姿などを思い出すと、いま流行の言葉を使えば、精神的な「ゆとり」も感じられた。実際の当人には「白地着てせつぱつまりし齢かな」(長谷川双魚)の気持ちもあったのかもしれないが、傍目にはとにかく悠々としていて頼もしく見えたのだった。それこそ「懐の深さ」が感じられた。掲句もまた、そういうことを言っているのだと思う。女性だから、とりわけて今の男たちを頼りなく感じているのだろうし、引き比べて「昔」の男の頼もしさを「ふところ」に託して回想しているのだ。そしてもちろん、句は「むかし、をとこありけり。うたはよまざりけれど、世の中を思ひ知りたりけり」などの『伊勢物語』を踏まえている。美男子の代表格である在原業平までをも暗に持ちだされては、いまどきの「ふところ」無き男の立つ瀬はあろうはずもない。カタナシだ。恐れ入って、このあたりで早々に引っ込むことにいたしますデス(笑)。「俳句」(2002年7月号)所載。(清水哲男)


June 2662002

 浦島太郎目覚めの床にあまがえる

                           夏石番矢

語は「あまがえる(雨蛙)」で夏。玉手箱を開けてしまった後の「浦島太郎」落魄の景と読んだ。竜宮城での遊びに飽きて、故郷に戻ってみれば我が家もなければ知る人もいない。三年ほどの滞在のつもりが、実は三百年も(七百年説も)経っていたというお話。やっとの思いで一夜の宿を得て、目覚めると同じ「床」に「あまがえる」がきょとんとした顔で坐っていた。人も風景もみんな変わってしまったなかで、この雨蛙だけは昔と同じ姿かたちをしている。迎えてくれたのは、お前だけか。何故こんなところに雨蛙がいるのかなどの疑問よりも先に、太郎の心は懐かしさでいっぱいになっている。いるはずもない床に雨蛙を配したことで、太郎の孤独がいっそう深まっている。浦島伝説の解釈には諸説あるが、私は地域共同体を外れた者に対するいましめのための話だと思う。伝説の原型は古く『日本書紀』にあって、ある男が海上で出会った絶世の美女とどこか遠い国に行ってしまい、ついに戻ってこなかったという。どうやら、異民族との結婚話らしい。当時の人々には、おそらくまだ共同体防衛の意識などなかったろうから、憧憬譚めいたニュアンスがある。ところが今に伝わる話は、武家が天下を取った鎌倉室町期の脚色らしく、異民族や他所者との結婚や交流は共同体破壊につながるから、これを暗示的にいましめているというわけだ。すなわち、浦島太郎は共同体破壊者であり、そんなけしからん男が最後にはどんな目にあうかという「みせしめ」なのであった。『巨石巨木学』(1995)所収。(清水哲男)

[ありがとうございます]複数の読者の方から、掲句の「目覚めの床」は、木曽山中の「寝覚めノ床」のことではないかというご指摘をいただきました。おそらく、そうでしょうね。と言うか、意識した句だと思います。ただ、あえて作者が「目覚めの床」と言い換えたのは、踏まえていることを読者に伝えつつ、そうした景勝の地ではなくて別の場所(私の解釈では、ごくありふれた何でもない室内)に、浦島太郎を「普通の人」として置きたかったのだと思います。


June 2562002

 我老いて柿の葉鮓の物語

                           阿波野青畝

語は「鮓(すし)」で夏。若い人たちのいる席で、いっしょに「柿の葉鮓」を食べているのだろう。もはやこの鮓の由緒を知らない人たちに、発祥の由来などを話して聞かせている。そして、こういう「物語」を知っている自分が、ずいぶんと「老いて」いることに、あらためて気がついたのだった。私なども、話ながらときおり実感することがある。自分では何の気なしに話していることだが、周囲の反応で、それと気づかされる。そこでショックを受けるというよりも、みずからの老いを淡々と認める気分だ。さて、柿の葉鮓は奈良吉野地方の名物だ。なぜ海から遠いこの地方で、海の魚を使う(古くは鯖のみを使用したらしい)鮓が名物になったのだろうか。いくつかある柿の葉鮓販売の会社のHPを参照して、それこそ少し物語っておけば、次のようである。その昔(江戸時代中期)、吉野に運ばれてくる海の魚は熊野灘から伯母峰を越えて行商人の背負い籠で運ばれてくるか、紀の川沿いに運ばれてくるかのどちらかだった。もちろん今と違って人力で運ぶのだから、二日ほどの行程がかかったという。そのために浜塩と言って、魚が傷まないように多量の塩を腹に詰めて運んだ。山里の吉野に魚が届くころには、塩気がまわりすぎ、煮ても焼いてもショッパくて食べられないほどで、その身を薄くそいで白御飯にのせて食べることを思いついたのがはじまりとされる。柿の葉のほうはそこらへんに沢山あったので、試しに巻いてみたら、よい香りがして美味かったからというところか。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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