今週は放送以外で人に会う日が多い。つまり、外食ならぬ外飲の夜が多い。乗り切ろう。




2002ソスN6ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2462002

 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂

                           夏目漱石

語は「蚊」で夏。「田原坂(たばるざか)」の解説は、電子百科事典にゆずる。「熊本県北部、鹿本(かもと)郡植木町田原地区にある三池往還の坂道。玉名平野に連なる木葉(このは)川流域の低地から、いわゆる肥後台地の西端に上る途中にある一の坂、二の坂、三の坂の総称。侵食谷であるため、標高のわりには曲折した急崖(きゅうがい)が随所にみられ、西南戦争(1877)では、この地形的特徴から官軍・薩(さつ)軍入り乱れての白兵戦の舞台となった。[(C)小学館]」。この歴史的事実を踏まえて読むと、漱石を刺した「蚊」の様子がよくうかがえる。蚊の種類や生態については何も知らないけれど、いわゆるヤブカに刺されたのだろう。あいつに刺されると、ひどく痛い。そこらへんの蚊と違って、痛さの上にずしんと重みが加わる。問答無用、物も言わずに「鳴きもせで」必殺の剣ならぬ必殺の針が「ぐさと」肉を刺し、ぐいと鋭くえぐる感じとでも言えばよいのか。この身を捨ててこその獰猛性が、漱石に田原坂での白兵戦を想起させたのだ。しかも、詠んだのが西南戦争から二十年しか経っていない頃だから、想起の中身はとても生々しかったはずだ。たまたま田原坂で、たかが蚊に刺されたくらいで大袈裟なと、笑い捨てるわけにはいかない凄みのある句だと思った。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)


June 2362002

 人死して家毀たるる深みどり

                           河合照子

語は「みどり(緑)」で夏。新緑の候を過ぎて、夏も盛りに近い「深みどり」。「毀たるる」は「こぼたるる」で、取り壊されるの意。この「毀たるる」という古い言葉が、実によく効いている。近所の独り住まいの人が亡くなって、残った家はどうなるのかと思っていたら、取り壊しの工事がはじまった。あの家も、これで見納めか。見に行くと、あっけないほど簡単に家が崩れていった。すべてが他力で「壊さるる」というよりも、「毀たるる」には、どこかに自壊していくようなニュアンスがある。もはやふんばりが効かなくなって、みずからが崩れ落ちていくといった感じだ。この古い言葉から、家それ自体の古さも想像できる。精気溢れる「深みどり」のなかに、半ば自壊しつつ崩れ落ちていく家の姿は、人の世のはかなさを具現していて、まことに切ない。人は死んだら何もかもお終い、なのである。私は編集者だったことがあるから、いろいろな執筆者の家を知っている。いま住んでいる三鷹市の近所で言えば、金子光晴や吉田一穂のお宅には何回となくうかがった。一度だけだが、歌人の宮柊二邸にも。なかで、亡くなるとすぐに「毀たれた」のが一穂さんの家。いまや、どこらへんにあったのかすらもわからないほどに、周辺の景観も変わってしまっている。「清水よ、ションベンなら、そこでしろ」と、『海の聖母』の詩人が指さしたあのちっぽけな庭も毀たれたのだ。「俳句研究年鑑・2001」所載。(清水哲男)


June 2262002

 向日葵の月に遊ぶや漁師達

                           前田普羅

語は「向日葵」で夏。若き日に、大正初期の九十九里浜で詠んだ句。ここは昔からイワシ漁の盛んな土地で、明治以後、二隻の船が沖合いでイワシ網を巻く揚繰(あぐり)網が取り入れられたが、砂浜に漁船を出し入れするのに多大の人力を要した。集落をあげて船を押し出す仕事を「おっぺし」と言い、1950年代までつづいたという。老若男女、みんなが働いていた時代だった。そんな労働から解放されて、集落全体にやすらぎの時が戻ってきた月夜に、なお元気な「漁師達」が浜で遊んでいる。酒でも酌み交わしているのか。「向日葵の月」とは、月光に照らされた向日葵が、また小さな月そのものでもあるかのように見えているということだろう。この措辞によって、現実の世界が幻想的なそれに切り替わっている。加藤まさおが書いた童謡「月の砂漠」の発想を得たのも九十九里浜だったそうだが、見渡すかぎりの砂浜と海にかかる月は、さぞや見事であるにちがいない。月と向日葵と漁師達。その光と影が力強い抒情を生んで、詠む者の胸に焼き付けられる。少年期の普羅はしばしば九十九里浜に遊んでおり、愛着の深い土地であった。臨終の床で「月出でゝかくかく照らす月見草」と詠み、死んだ。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)




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