『男女共同参画白書』に女性社長の数が少ないとあるけれど、不平等と無関係なのでは。




2002ソスN6ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2162002

 自転車の少女把手より胡瓜立て

                           川崎展宏

語は「胡瓜(きゅうり)」で夏。「杭州五句」のうち、つまり中国旅行でのスケッチ句だ。自転車を走らせている少女が、片手に「把手(はしゅ)」(ハンドルの握り手)といっしょに胡瓜を一本「立て」て握っていた。噛りながら、走っているのだろう。ただそれだけのことながら、さっそうとして元気な異国の女の子の姿が浮かんでくる。句に、清々しい風が吹いている。そのまんま句の典型だけれど、よく撮れているスナップ写真と同じで、対象にピントがちゃんと合っているのだ。そのまんま句の難しさは、このピント合わせにある。ただ闇雲にそのまんまを詠んでも、ごたごたするばかり。失礼ながら、多くの旅行(とくに海外旅行)句のつまらなさは、季節感や生活感の違いなどということよりも、このごたごたに原因がある。あれもこれもと目移りがして、ピントがぼけてしまうのだ。詰め込みすぎるのである。人情としてはわかるけれど、句としてはわからなくなる。掲句のように、一見、なあんだと思われるくらいに焦点を絞り込むことが肝要だろう。偉そうに書いているが、たまに旅先で詠んだ拙作を読み返してみると、やはりほとんどが哀れにもごたついている。すなわち本日は、まっさきに自戒をこめての物言いなのでした。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


June 2062002

 夏掛やつかひつくさぬ運の上

                           安東次男

語は「夏掛(なつがけ)」、涼しげに仕立てられた夏蒲団。軽くて見た目には涼しそうでも、暑い夜にきちんと蒲団を掛けて寝るのはやはり寝苦しい。子供の頃に「いくら暑くても、お腹だけは冷やさないように」と躾けられ、いまだに習慣となってはいるが、ときとして掛けたくなくなる。そんなときに、この句は呪文かまじないのように使える。掛けないと、まだ使い切っていない「運」が逃げていってしまうとなれば、腹をこわすよりもよほど大問題だ。そこでいくら暑くても、「ナツガケヤツカヒツクサヌウンノウエ」と唱えながら掛けると、なんとなく納得したような気分になれる。俳句が、実生活に役立つとは露知らなかった。とまあ、半分は冗談だけれど、作者にしても自己納得の方便として「つかひつくさぬ運」を持ちだしているのは明白だ。もしかすると、作者ゆかりの地には、こんな迷信が言い伝えられているのかもしれない。そもそも「つかひつくさぬ運」という考え方自体が、迷信に通じているからだ。そして、言い伝えられているとしたら、やはり子供の躾のためだろう。それを、作者は大人になっても守りつづけていたと思うと微笑を誘われる。大の大人になっても、誰にでもこうした一面はあるものだと、むろん作者は意識的に書いている。『流』(1996・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


June 1962002

 黒板に人間と書く桜桃忌

                           井上行夫

日は「桜桃忌(おうとうき)」。作家・太宰治が1948年(昭和二十三年)六月十三日に愛人と玉川上水に入水し、この日に遺体が発見された。以前にも書いたことだけれど、私はあまり○○忌という季語を好まない。故人の身内や親しかった人々の間で使うのは結構だが、突然○○忌と言われても季節との関係がピンとこないからだ。ただ、そんななかで桜桃忌は比較的人口に膾炙している忌日だろうから、まあ使ってもよいだろうなとは思っている。少なくとも、一般には虚子忌(四月八日)よりも知られているはずだ。さて、掲句の作者は教師だろう。桜桃忌に際して、生徒たちに大宰のことを話している。「黒板に人間と」書いたのは、おそらく小説『人間失格』を教えるためで、しかし「人間」と書いたところで手が止まったのだ。一瞬、自分で書いた「人間」という文字を眺め直して、絶句しそうな思いにとらわれたのにちがいない。「人間」とは、何だろう。そして、さらに「失格」とは……。とてもじゃないが、知ったふうに生徒たちに解説などできない自分という「人間」にも突き当たった。黒板の「人間」の二文字が、不可解な異物のように感じられた。深読みに過ぎたかもしれない。が、この黒板の「人間」の文字のひどく生々しい印象から、ごく自然にこう読めてしまったということだ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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