「憎むべきは、尊大な態度で」手を振る子供らの下を通った選手たち…。U・サーバの詩。




2002ソスN6ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1962002

 黒板に人間と書く桜桃忌

                           井上行夫

日は「桜桃忌(おうとうき)」。作家・太宰治が1948年(昭和二十三年)六月十三日に愛人と玉川上水に入水し、この日に遺体が発見された。以前にも書いたことだけれど、私はあまり○○忌という季語を好まない。故人の身内や親しかった人々の間で使うのは結構だが、突然○○忌と言われても季節との関係がピンとこないからだ。ただ、そんななかで桜桃忌は比較的人口に膾炙している忌日だろうから、まあ使ってもよいだろうなとは思っている。少なくとも、一般には虚子忌(四月八日)よりも知られているはずだ。さて、掲句の作者は教師だろう。桜桃忌に際して、生徒たちに大宰のことを話している。「黒板に人間と」書いたのは、おそらく小説『人間失格』を教えるためで、しかし「人間」と書いたところで手が止まったのだ。一瞬、自分で書いた「人間」という文字を眺め直して、絶句しそうな思いにとらわれたのにちがいない。「人間」とは、何だろう。そして、さらに「失格」とは……。とてもじゃないが、知ったふうに生徒たちに解説などできない自分という「人間」にも突き当たった。黒板の「人間」の二文字が、不可解な異物のように感じられた。深読みに過ぎたかもしれない。が、この黒板の「人間」の文字のひどく生々しい印象から、ごく自然にこう読めてしまったということだ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


June 1862002

 蛇苺いつも葉っぱを見忘れる

                           池田澄子

語は「蛇苺(へびいちご)」で夏。おっしゃる通り。たまに蛇苺を見かけても、ついつい派手な実のほうに気をとられて、言われてみればなるほど、「葉っぱ」のほうは見てこなかった。こういうことは蛇苺にかぎらず、誰にでも何に対してでも日常的によく起きることだろう。木を見て森を見ず。そんなに大袈裟なことではないけれど、私たちの目はかなりいい加減なところがあるようで、ほんの一部分を認めるだけで満足してしまう。いや、本当はいい加減なのではなくて、目が全焦点カメラのように何にでも自動的にピントがあってしまつたら、大変なことになりそうだ。ものの三分とは目が開けていられないくらいに、疲れ切ってしまうにちがいない。その意味で、人の目は実によくできている器官だと思う。見ようとしない物は見えないのだから。それにしても、やはり葉っぱを見ないできたことは気になりますね。このあたりが、人心の綾の面白さ。ならば、一度じっくり見てやろうと、まことに地味な鬼灯の花にかがみこんだのは皆吉爽雨だった。「かがみ見る花ほほづきとその土と」。その気になったから「土」にまでピントがあったのである。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


June 1762002

 薔薇園一夫多妻の場を思ふ

                           飯田蛇笏

語は「薔薇(ばら)」で夏。句の「薔薇園」は「そうびえん」と読ませている。我が家からバスで十分ほどのところに神代植物公園があって、ここの薔薇園は有名だ。シンメトリックに設計された沈床式庭園に、約240品種5,000余本の薔薇が植えられている。たまに見に出かけるが、あまりの花の数に圧倒されて、いつも疲れてしまう。この句がどこの薔薇園を詠んだものかは知らないけれど、華麗なれどもいささか鬱陶しい感じを「一夫多妻」と言ったのだろう。蛇笏というと、冷静沈着にして生真面目な人格を連想してしまうが、こんなユーモラスな一面があったのかと嬉しくなった。たしかに薔薇園の薔薇は、互いに妍を競い芳香を競っているかのようだ。そういえば、薔薇の名前にはクレオパトラなどの女性名が多い。神代には、マリア・カラスなんて品種もあった。それにしても、人の想像力にはへんてこりんなところがありますね。私など薔薇に女性を感じてはいても、一夫多妻とまでは思いも及ばなかった。言われてみてはじめて、なるほどと感心するばかり。ちなみに、逆に薔薇を男だと言ったのは、たしかサトウ・ハチローだったと思う。うろ覚えだが、♪きれいな花にはトゲがある、きれいな男にゃ罠がある、知ってしまえばそれまでよ、知らないうちが花なのよ……と、男に騙された女を描いた。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)




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