勝手に名簿に載せておいて、イヤなら署名捺印した断り状を送れとは……。ふざけるな。




2002ソスN6ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1362002

 空港の別れその後のソーダ水

                           泉田秋硯

語は「ソーダ水」で夏。句を読んですぐに思い出したのが、いろいろな歳時記に載っている成瀬櫻桃子の「空港のかかる別れのソーダ水」だ。空港の喫茶室でくつろぐ人はいないから、メニューにもあまり上等な飲み物は並んでいない。客にしても飲み物を味わうというよりは、場所取りのために何かを注文するのであって、このときに安価で長持ちのする「ソーダ水」などが手頃ということだろう。さて掲句だが、空港に見送りに行くくらいだから、その人とは別れがたい思いで別れたのだ。今度は、いつ会えるのか。もしかすると、二度と会えないかもしれない。すぐには空港を去りがたく、ちょっと放心したような思いで喫茶室に入り、ソーダ水を前にしている。むろん、ソーダ水を飲みたくて頼んだわけではない。櫻桃子句が別れの切なさを正面から押し出しているのに対して、泉硯句は切なさの後味をさりげなく表現してみせた。もしかするとパロディ句かもしれないが、現場のドラマを描かずになおよくドラマの芯を伝えているという意味で、とても洒落た方法のように思える。カッコウがよろしい。他のいろいろなドラマを詠むのにも応用できそうな方法だが、しかし、これは作者だけの、しかも一回限りの方法だ。頻発されれば、鼻白むばかり。一見地味な句に見えるけれど、この方法に思いがいたったときの作者の心の内は、それこそソーダ水のごとくに華やいだことだろう。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


June 1262002

 物指をもつて遊ぶ子梅雨の宿

                           星野立子

のために表に出られない旅館の子が、帳場のあたりでひとりで遊んでいる。それも子供らしい遊び道具でではなく、「物指(ものさし)」を持って遊んでいるところへの着目が面白い。男の子だったら、物指を刀に擬してのチャンバラの真似事だろうか。宿の様子については何も描写はされていないけれど、子供と物指との取りあわせが宿全体の雰囲気を雄弁に語っている。観光地にあるような大きな旅館ではなく、経営者の家族の住まいも片隅にある小さな宿であることが知れる。それも満室ではなく、閑散としている。もしかすると、他に泊まり客はいないのかもしれない。作者は出そびれて無聊をかこち、子供はそれなりの遊びに無心に没頭していて、さて表の雨はいっこうに止む気配もない。そんな雨の降りようまでが感じ取れる。うっとおしいと言うよりも、今日はもう出かけるのをあきらめようと思い決めた作者の気持ちが、じわりと伝わってくるような句だ。子供がいる宿には何度か泊まったことがあるが、店主の子供が出入りする町の食堂などと同じように、そういうところの子供には不思議な存在感がある。あちらはごく普通の生活空間として動き回り、こちらは非日常空間として受け止めるからなのだろう。その昔香港の食堂で、大きな飼い犬までが出てきたときには、さすがにまいった。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)


June 1162002

 子の皿に塩ふる音もみどりの夜

                           飯田龍太

語は「みどり(緑)」で夏。「新緑」は初夏だが、「緑」は夏たけてくる頃の木々の葉の様子だ。安東次男の『六月のみどりの夜わ』(「わ」は誤記に非ず、為念)という詩集を若き日に読んだ印象が強烈なせいか、「みどりの夜」というと、私はいつも蒸し暑い六月の夜を思ってしまう。それでなくとも暑いのに、繁った青葉が夜の闇のなかにこんもりと沈んでいるとなれば、そこから大気が生暖かく湿ってくるようで、余計に蒸し暑さを感じさせられる。そこに、サラサラっと乾いた「塩ふる音」がする。かそけくも心地よい音だ。子供の小さな皿だから、ほんの少量の塩をふりかけただけだろう。が、その音が聞こえるほどの静かな夜なのであり、これもまた「みどりの夜」ならではの感興であると、作者には思えた。少しく大袈裟に句の構図を描いておけば、蒸し暑さを疎んじる心がすうっと消えて、むしろ周辺の「みどりの夜」は、家族とともにある作者を優しく包み込んでくれている存在だと、そちらのほうに心が移行していくきっかけを詠んでいるのだろう。蛇足ながら、昔の「塩壺」の塩をふっても、とくにこの季節には、このように乾いた音はしない。私が子供だった頃の塩は、いつだって塩壺に湿ってたっけ。『忘音』(1968)所収。(清水哲男)




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