仕事が片づかない。だいたい「片づける」なんて考えが不遜なのだ。と、居直ってみる。




2002ソスN6ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1262002

 物指をもつて遊ぶ子梅雨の宿

                           星野立子

のために表に出られない旅館の子が、帳場のあたりでひとりで遊んでいる。それも子供らしい遊び道具でではなく、「物指(ものさし)」を持って遊んでいるところへの着目が面白い。男の子だったら、物指を刀に擬してのチャンバラの真似事だろうか。宿の様子については何も描写はされていないけれど、子供と物指との取りあわせが宿全体の雰囲気を雄弁に語っている。観光地にあるような大きな旅館ではなく、経営者の家族の住まいも片隅にある小さな宿であることが知れる。それも満室ではなく、閑散としている。もしかすると、他に泊まり客はいないのかもしれない。作者は出そびれて無聊をかこち、子供はそれなりの遊びに無心に没頭していて、さて表の雨はいっこうに止む気配もない。そんな雨の降りようまでが感じ取れる。うっとおしいと言うよりも、今日はもう出かけるのをあきらめようと思い決めた作者の気持ちが、じわりと伝わってくるような句だ。子供がいる宿には何度か泊まったことがあるが、店主の子供が出入りする町の食堂などと同じように、そういうところの子供には不思議な存在感がある。あちらはごく普通の生活空間として動き回り、こちらは非日常空間として受け止めるからなのだろう。その昔香港の食堂で、大きな飼い犬までが出てきたときには、さすがにまいった。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)


June 1162002

 子の皿に塩ふる音もみどりの夜

                           飯田龍太

語は「みどり(緑)」で夏。「新緑」は初夏だが、「緑」は夏たけてくる頃の木々の葉の様子だ。安東次男の『六月のみどりの夜わ』(「わ」は誤記に非ず、為念)という詩集を若き日に読んだ印象が強烈なせいか、「みどりの夜」というと、私はいつも蒸し暑い六月の夜を思ってしまう。それでなくとも暑いのに、繁った青葉が夜の闇のなかにこんもりと沈んでいるとなれば、そこから大気が生暖かく湿ってくるようで、余計に蒸し暑さを感じさせられる。そこに、サラサラっと乾いた「塩ふる音」がする。かそけくも心地よい音だ。子供の小さな皿だから、ほんの少量の塩をふりかけただけだろう。が、その音が聞こえるほどの静かな夜なのであり、これもまた「みどりの夜」ならではの感興であると、作者には思えた。少しく大袈裟に句の構図を描いておけば、蒸し暑さを疎んじる心がすうっと消えて、むしろ周辺の「みどりの夜」は、家族とともにある作者を優しく包み込んでくれている存在だと、そちらのほうに心が移行していくきっかけを詠んでいるのだろう。蛇足ながら、昔の「塩壺」の塩をふっても、とくにこの季節には、このように乾いた音はしない。私が子供だった頃の塩は、いつだって塩壺に湿ってたっけ。『忘音』(1968)所収。(清水哲男)


June 1062002

 花桐や手提を鳴らし少女過ぐ

                           角川源義

語は「花桐(桐の花)」で夏。もう、北国でも散ってしまったろうか。遠望すると、ぼおっと薄紫色にけむっているような花の様子が美しい。そんな風景のなかを、少女が手提(てさげ・バッグ)の留め金をパチンと鳴らして快活に通り過ぎていった。このときに少女は、作者とは違い花桐などになんらの関心も示していないようだ。それが、また良い。関心を示したとすれば、句の空気がべたついてしまう。まさに、清新な夏来たるの感あり。それも、優しくやわらかく、そして生き生きと……。句はこれだけのことを伝えているのだから、こう読んで差し支えないわけだが、山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(角川ソフィア文庫)に作句時の背景が書かれており、それを読むと、さらに清新の気が高まる。「白河の関を過ぎたときの句。だから、古人が冠を正し、衣裳を改めて関を越えたことも思い出されているのであって、その昔に対比して、ハンドバッグの止金を鳴らしながら颯爽と過ぎてゆく現代の無心の少女の様が、作者の心に残るのである」。ちなみに、白河の関は古代奥州の南の関門。福島県白河市旗宿(はたじゅく)所在。『神々の宴』(1969)所収。(清水哲男)




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