マンション大修繕のためのシートが、やっと外された。室内に夏の光がさしこんできた。




2002ソスN6ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0962002

 日曜はすぐ昼となる豆の飯

                           角 光雄

語は「豆の飯(豆飯)」で夏。会社勤めの人ならば、ほとんどの人が共感を覚える句だろう。日曜日はいささかの朝寝をすることもあるけれど、実際すぐに昼が来てしまう。昨晩までは、あれもしようこれもしようなどと思っていたのに……。一見、小学生にでも詠めそうな句だ。が、そうはいかないのが「豆の飯」と結んだところ。昼食に旬の豆飯とは、ちょっとしたご馳走である。目へのご馳走、そしてもとより舌へのご馳走。日頃は味気ない外食を強いられている夫への、妻のささやかな心尽くしなのだ。作者は「おっ、もうこんな季節か」と嬉しく感じ、しかし同時に、自分が無為に過ごした午前中の時間を、妻が手間のかかる豆飯のために時間を上手に使ったことに思いが及んでいる。焦りとまではいかないのかもしれないが、なんとなく自分が怠惰に思えた一瞬でもある。豆の緑に真っ白い飯の鮮やかな対照が、ことさらに目に沁みる。私もサラリーマンと似たような日々を送っているので、この句は心に沁みた。そしてさらに、うかうかしていると明るい時間は瞬く間に過ぎてしまい、あっという間にテレビの「サザエさん」タイムがやってきて、明日の仕事のことなどをちらちらと思いはじめるのだ。哀しきサガと言うなかれ。でも、やっぱり哀しいのかな……。『現代秀句選集』(1998・別冊「俳句」)所載。(清水哲男)


June 0862002

 夜の雲やラムネの玉は壜の中

                           真鍋呉夫

語は「ラムネ」で夏。一読、漠然たる不安な感じに誘われた。月が出ているのだろう。いくつもの雲の端のほうが、月光を反射して少し明るくなっている。濁った色合いの雲だ。それらの雲が風に乗って移動していく様子を、作者は「ラムネ」を片手に眺めている。「夜の雲」ではなく「夜の雲や」というのだから、そんな雲に心を引かれていることがわかる。では、どのように引かれているのか。それが中七下五句で明らかにされ、明らかにされると同時に不安感が立ち上るという仕組みだ。さて「ラムネの玉」もまた、いささかの濁った色合いを持っている。決して、透明ではない。しかも半透明の「壜(びん)の中」にあるので、なおさらに濁りを帯びて見える。雲の色は天然自然の濁りであり、ひるがえってラムネの玉のそれは人工の濁りだ。このときに作者は、自分がまるで瓶の中の玉のようだと感じたのだと思う。いかに純粋を希求してもついに透明にはなることは適わず、濁りを帯びたままの存在であるしかないのだ、と。しかもその濁りは、夜の雲のように天然自然に発したものではなく、あくまでも人工的なそれでしかない。こう読むと、壜は文明社会を暗示しており、玉は好むと好まざるとに関わらず文明社会に取り込まれた人間存在の比喩となるだろう。そこでもう一度上五に戻ると、すっかりラムネの玉と化した自分が、夜の雲を見上げている気持ちにさせられる。不安感は、私自身のラムネの玉化によるものと思われる。『眞鍋呉夫句集』(2002・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


June 0762002

 田一枚植て立去る柳かな

                           松尾芭蕉

遊行柳
語は「田植」で夏。近着の詩誌「midnight press」(No.16 2002年夏)の「ポエトリイ・コミック」(長谷邦夫)が、この句を取り上げていた。テーマは、句の主格は誰なのか……。昔からこの論議はかまびすしく、主格早乙女説、芭蕉説、はたまた柳説とにぎやかだ。なかには山本健吉のように、植えたのは早乙女で、立去ったのは芭蕉だと、主格を二つに分けた説もある。長谷さんは、平井照敏がこの柳の精が翁の姿で現れる能『遊行柳』を根拠とした柳(の精)説を支持している。いずれにも読めるが、私も柳説だ。ただし、根拠は少し違う。そもそも芭蕉がこの柳を目指したのは、私淑していた西行にこの柳を詠んだ歌があったからだ(『奥の細道』参照)。憧れの柳だったのである。その柳をいま眼前にして、感激の余韻のうちにすっと句が成った。このときに、私の着眼点は「田一枚植(うえ)て」にある。あまり鮮明ではないが、写真(栃木県那須町HPより・中央が遊行柳)に見られるように、芭蕉の昔から周辺には田が何枚もあった。通常の田植で一枚だけ植えて立ち去る手順などはありえないから、芭蕉が現実に見たとすれば、最後の一枚という理屈だ。が、最後の一枚を言うときに「田一枚」とはいかにも不自然である。したがって、現実の田植ではない。私は、芭蕉の前にはまだ一枚も植えられていない田圃が広がっていたのだと思う。しかし、やっと西行ゆかりの柳の陰に立つことのできた芭蕉の興奮が、しばし白日夢のように展開し、柳(の精)が彼を歓迎するかのように「田一枚」を植えてみせる情景が浮かんだのだ。この幻想は、先の能から来たものとも考えられる。しばらくして放心状態から醒めてみれば、柳はただの柳であり、涼しげに風に吹かれているばかり。それにしても、私の知るかぎり「田一枚」にこだわった解釈にはお目にかかったことがない。不思議なこともあればあるもの。(清水哲男)




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