問題の香料の成分にヒマシ油がリストアップされているが、薬用のものとは別種なのか。




2002ソスN6ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0662002

 扇置く自力にかぎりありにけり

                           上田五千石

語は「扇(おうぎ)」で夏。中国の団扇(うちわ)に対して、平安時代はじめに日本で考案されたのだそうだ。さすがと言おうかやはりと言おうか、コンパクト化の得意な國ならではの発明品である。それはともかく、掲句は「自力」に「かぎり(限り)」のあることを、さしたる重さを感じさせない扇を媒介にして言ったところが面白い。字句通りにすらりと理解すれば、作者は「扇置く」ときに、いささかの重さを感じて、その重さから自分の持てる力の限界を連想したことになる。扇ならまだ楽々と持ったり置いたりすることはできるけれど、他方、自力ではどうにもならない重いものが存在することに素早く思いがいたり、すなわち人の力には限界ありと納得したのだ。むろん、このように読んでよい。ちゃんと、そう書いてあるのだから。しかし私には、句がもっと別のことを言っているように写る。むしろ、反対に近いことを言っているのではあるまいか。つまり、作者は扇を扱う以前に、たぶん精神的な「かぎり」に追いつめられるような状態があって、そこでたまたま扇を置いたときに閃いた句ではないのだろうか。自力の「かぎり」に懐疑的なままで、一応の自己説得のために「ありにけり」の断定を置いてみたという感じ。前者と読めば、句の中身はさながら格言のようにふっきれる。後者だと、たかが扇を置くくらいではふっきれない何かが依然として残る。「自力」の可能性を前者のようにすぱりと割り切られては困るという、私のへそ曲がり的な読みにすぎないのかもしれないけれど。『俳句塾』(1992)所収。(清水哲男)


June 0562002

 瞼閉じ荒き息する雀の子

                           宮田祥子

語は「雀の子」で春。雀の卵は春から夏にかけて孵化するので、夏季としても差し支えあるまい。卵から独立して飛べるようになるまでに、二ヶ月弱はかかるというから、一茶の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」などの姿は、むしろ夏の子雀のものである。少し大きくなってくると、子雀はよく跳ねて巣から落下する。句は、そんな子雀を拾っててのひらに乗せている図だと思う。私にも覚えがあるが、眺めていると可愛いというよりも、生命そのものの不思議を感じさせられてしまう。消え入りそうにちっぽけな体なのに、瞼をしっかりと閉じ、想像以上に荒い呼吸をしている。ちょうど、人の赤ん坊が高熱を発したときのような感じだ。生命の力強さが、ちっぽけな体いっぱいにふつふつと涌いている様子は不思議であると同時に、よくわからない何か尊いものに触れているような感じすら受ける。作者は見たままをそのままに詠んでいるだけだが、「瞼閉じ荒き息する」のそのままの描写は、生々しいがゆえに、読者の連想を単なるその場の情景から遠くに連れていく力を持っている。私はたまたま子雀を拾ったことがあるので、上記のように感じたわけだが、拾ったことのない読者の心のうちには、また別の生命への感慨が去来することだろう。そのまんま俳句、おそるべし。『福寿草』(2001)所収。(清水哲男)


June 0462002

 「武蔵」読むに武蔵の目つき花蜜柑

                           五味 靖

語は「花蜜柑(蜜柑の花)」で夏。作者、二十代の句。読んでいる「武蔵」は、吉川英治の『宮本武蔵』だろう。かつて一世を風靡した傑作で、徳川夢声のラジオでの朗読も人気があった。数多く映画化もされており、なかで内田吐夢が中村錦之助で撮った一連の作品が、私は好きだった。それこそ映画を見ていると、だんだん主人公に同化していくように、言われてみればたしかに読書でもそういうことが起きてくる。小休止でページから目を離し、遠く窓外を見やれば白い蜜柑の花の花盛りだ。見慣れた風景ではあるが、いつもとは違うように見える。それも道理で、自分の「目つき」がすっかり昂然たる武蔵のそれになっているからだと気がついた。句を分解すればそういう仕組みだろうけれど、むしろ丸のみにして味わうほうが良さそうだ。真剣に本の世界に没入している若者がいて、その若者を蜜柑の花の白色と芳香とが包み込んでいる。まことに、青春は美わしではないか。私にも、このような時期があった。それを掲句が遠望させ、ほとんど羨望の念で若き日のおのれを回想させる……。君知るや、この苦き心の切なさを。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)




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